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天橋立の浜辺に打ち上げられた娘が漁師たちに助けられる。娘は記憶を失くしていた。
第五章、 丹後変
一
遡って、景行二八年(西暦一四三年)梅雨、小碓達が西征の旅に出て、西国の熊曾で情報集めに精を出していた頃である。退屈でしょうがないアルテミスは、纏向の睦月の様子を見たり、あちこちの景色を見たりして日の本を散策していた。
「ハデス、暫くタケルの方をお願いね。ミーは何か面白い出来事がないか探しているから」
「はい、畏まりました、アルテミス様」
ハデスはいつもマイペース。それにしても休むこともなく、永遠に動き続けるロボットのハデスは、従順で人を裏切ることがない。こんなロボットが地球上で開発されるのはいつのことであろうか?
アルテミスは椅子に寝転んだまま、ステッキで自分の頭を小突きながら、考えている。
「ええと、三カ月以内で、場所は日の本でと、何か事件らしきことと・・・」
頭の中で景色や事件らしきことを思い浮かべ、コンピューターに検索させた。例の如く頭の中で考えるだけでコンピューターが何でもやってくれる。すぐに編集されて映し出されたホログラム映像が動き始めた。
「うわぁ、海が騒いでる、夜の嵐ね・・きゃー・・」
波の飛沫が顔に降りかかってきて、アルテミスは思わずのけぞって避けた。
「もうやだわ、リアル過ぎるってのも考えものね、現実と区別がつかなくて疲れちゃう。ああ、船だわ。あれ、あの船、危ない、きゃー・・」
大波の上で今にも倒れそうなほど傾いでいる船に、
ピカッ!
と、稲光がしたかと思うと、もの凄い音がして船の主帆をへし折ってしまった。押し寄せてくる波に思わずのけぞって避けるアルテミスは、ホログラムの映像を、目の前で現実に起こっている出来事であるかのように感じた。
アルテミスがチラッと天井の右上端に赤字で表示された日付を確かめると、ほんの数日前の出来事であった。ついでにその左を見ると若狭の海(京都府北部)とある。編集されたリプレイ映像の時は赤字で表示され、実時間の時は青字の表示に切り変わる。
一隻の大きな船が荒波に揉まれながら右に左に大揺れして、大波を浴びている。今にも転覆しそうな船の上で、必死になって綱や欄干にしがみ付いている人達が見える。
やがて映像は突然昼間の浜辺に切り換わった。
「あれ? ここは何処なの?」
アルテミスは驚いて起き上った。
青い水面がキラキラ輝くことで何とか海と分かるほど、空と海が重なっている。
「こういうのを抜けるような青空というのか。表示が青だわ、ここからは現在ね」
浜辺には松の木がずらっと並んで僅かな日陰の筋を作っている。どこかの半島のようだ。
「へぇー、こんな綺麗な処があるんだ、白砂がとっても綺麗、姿のいい松の木が輝いている。場所の表示は若狭の海のままだわ、何というところかしら?」
すると、アルテミスの顔のすぐ傍らに別の小さな画面が現れ、くるくる回転しながら過去に向かって盛んに検索し始めた。
「駄目かしら・・ああ、あったわ、あ・ま・の・・・天橋立というのか、琵琶湖のずっと北ね。でもさっきの続きがどうしてここなのかしら? まあ、いいわ、見てよっと」
まさに台風一過、五月晴れといった日の昼近く、一艘の小舟が穏やかな波間に漂っている。ここは丹後半島の南の付け根、阿蘇海という波静かな入り江である。天橋立が入り江を塞ぐように北東に伸び、天然の防波堤となっている。その北側が宮津という海辺の邑で、ここにはのちの律令時代の頃に丹後国の国府があった。なお、天橋立の南側にも海辺の村がたくさんあり、この辺一帯を宮津と呼ぶ。
阿蘇海とは不思議な名前である。太古の昔、この地域にも西国の阿蘇の火山の噴石が降ったと伝わるが、その名残であろうか。神話では天の浮橋のかけらが、天から落ちてきたのが天橋立だとされる。
小舟には二人の男が暑さを避けるために日笠を被り、互いに反対向きに寝転んでいる。共に貫頭衣に短褌姿。舟桁に載せた足先で、板きれのような足駄が僅かに足指に絡んでそよそよと揺れている。
手前に居る奴の左の脇の下には釣竿が挟んであるが、釣り糸はピクリともせず、波も至って穏やか。ほんの気持だけ風の吹く、じりじりと暑い日和であった。もう一人はとっくに釣竿を舟に納めて、グーグー鼾をかいている。二人の魚籠には何も入っていない。
すると手前の奴がむくむくっと起き上って笠を被り直し、
「暑いのぉ、五平どん」
と、気だるそうに毛深い胸ぐらを掻きながら釣り糸を見て、
「ちっとも釣れねぇぞ。おい、五平どんってばよ」
「んん、あーあ」
と、もう一人が腕を一杯に広げて伸びをした。
「そうだのぉ、こう暑くては魚の奴も岩陰で涼んでいるのかもしんねぇ、ちょっくら松林さ行って、茸採りに変えべぇかのぉ。日影があるから少しは涼しかんべぇ」
「そうすべ、そうすべ」
と言って、男は釣り竿を片付け、櫂を握った。天橋立に広がる松原の中腹を目指して舟を漕いで行く。海岸沿いの松林ではよく茸が採れる。梅雨時である、さぞかし茸も育っている事だろう。
この男十八で三右衛門といい、もう一人は三十の壮年で五平という。二人は漁師であった、魚介を取ってはあちこちに売りに行くのである。二人共竹串を挿してとめた饅頭髷に日笠を載せている。
三右衛門はひょろっとした痩せ型で垂れ目の若者で、自分というものがないというのか、何でも相手の言うことを聞いてしまうひ弱な性格の男である。幼い頃から年上の男に命じられるまま仕事をしているからかもしれない。
一方五平は、三右衛門を使って仕事をしている者で、背は三右衛門より低いが、小太りでがっしりした身体つき。鼻がやけに大きく、鼻の右に大きなほくろがある。二人とも熊のように毛深くて色が黒く、服を着ていないと獣と間違えそうだ。
宮津から少し西に行くと、谷間を縫って北西方向に丹後半島の付け根を分断する峰山街道が走っている。当時は丹後を含めて丹波国と言ったが、厳密にはこの街道は丹後国の中心を走る街道であって、その南西側の山並一帯を比治山と呼んだ。その比治山の南側から山城(京都)に至る地域が丹波である。
この峰山街道中腹から南西に広がる比治山の奥のどこかに磯砂という者を頭とする知られざる村がある。磯砂達は誰にもその場所を知られることなくひっそりと山奥に住み、突然現れては丹後地方を荒らし回るという、神出鬼没の山賊集団であった。
…丹波国には古くから山人族の丹波乱断という忍者集団が住んでいた事が知られているが、磯砂達はあるいはその御先祖様だったかもしれない。ちなみに伊賀忍者の祖と言われる百地三太夫は通称百地丹波守と呼ばれていた。百地丹波守は新陰流の祖、柳生石舟斎の師でもある。ヤマトタケルの頃は伊賀という国名すらなかった。…
五平と三右衛門はこの磯砂の手下であった。情報集めなどをさせる為に頭の磯砂があちこちに人を派遣しているのである。
砂浜に舟を乗り上げて、松の木陰に入って行った二人は、のんびりと木陰伝いに左右に分かれて茸を探し始めた。すると三右衛門が外海側の浜に、何やら白い布が風でひらひらそよいでいるのに気が付いた。外海側は内海側と違い風が強いし、波も荒い。
「おや? 何だな、あれは?・・・」
と、笠を翳して目を凝らした。背中を見せて離れて行く五平に向き直ると、
「五平どん、浜に何かあるぞ、何か打ち上げられてる。あの白いのは何だ?」
「何だって?」
と、遠くで振り返った五平も浜の方を眺めた。
「何だべなぁ、三右? 行ってみべぇか」
二人は日に照らされて焼けただれた砂の上を、足駄のまま歩きにくそうに、泳ぐようにしながら飛び跳ねていく。見ると波打ち際に若い娘らしき者がうつ伏せになって倒れていた。褶らしき白い布が首に巻きついて風に靡いてはためいているのであった。
二人は思わず顔を見合った。五平が、
「し、死人けぇ。溺れたのか、可哀そうにのぉ」
と言って、しゃがんで仰向けに直してやった。その弾みで褶がひらひらと飛び去って、慌てて三右衛門が掴んだ。腕や顔は砂だらけで干からびて、長い髪の毛も絡み付いているが、一見して面差しの美しい乙女に見えた。異国風の白い袍に長袴姿、手や裸足の足が白砂に紛れるほどに白い。
五平が娘の服に付いた砂を払って、容儀を整えていると、覗いている三右衛門が、
「んん? おい、五平どん、今動いたみたいだぞ、目が少し動いただ」
「何、生きてるだか?」
五平は娘の顎を手で掴んで揺らしながら、
「これ、娘さん、しっかりしろ・・起きろ・・」
と言いながら、頬っぺたを軽く叩いた。反応がないが、確かに生きている感じがした。そして服の上から心の臓辺りを押したり緩めたりし始めた。
やがて娘は、
「ゲホ、ゲホッ」
と咳き込んで、横を向き水を吐いた。楽になるようにと、五平が娘の背中を擦ってやった。
落ち着いたところで起こしてやり、
「ああ、よかっただ、生き返っただな、娘さん」
と言って、五平は片膝立てて、娘を倒れないように抱きかかえて支えた。
「助かった、本とによかっただ」
と言って、三右衛門は娘に褶を返してやった。
娘は褶を受け取ると唾液と砂にまみれた口を拭った。歳は二十ぐらいであろうか、肌が抜けるように白く、ほっそりとした髪の長い乙女であった。髪は何かで留めていたのだろうが、海水に洗われて元の形が分からない。
「△〇▲■♀♂」
娘が何か話した。
しかし、五平と三右衛門には何を言ったのか聞き取れない。
「何だって、今何と言ったんだ?」
と、娘の背を擦る手を止めて、五平が問い返した。
「あ・・有り難う御座いました・・・ここは?」
と、ポカンと口を開けて辺りを見回す。
どうやら言葉は通じるようだと安心した五平が、
「ここは丹後の宮津だがね・・・娘さん、どうしなすったので? 舟が難破したのかね?」
と、訊ずねた。
「た、丹後?・・・難破?・・・分かりません?」
「あんた、名前は?」
と、屈んで三右衛門が割り込んだ。
「名前? わたしの名前?・・・分かりません、思い出せない」
そう言って、娘は掌で顔を覆って泣き出してしまった。どうやら記憶がないらしい。三右衛門は五平を見つめポカンとしている。
困った五平が、
「三右、浜辺を探してみろ、他にも誰か居るかもしれねぇ」
と、三右衛門に命じ、また娘の髪や服に着いた砂を払いながら、語り出す。
「娘さん、しっかりしなせぇ。まあ、なんにしてもよく助かったものだ、あんた運がええだよ。だけんど、ここじゃあ体に毒だ、もう少し涼しい所に連れて行ってやるべぇ」
五平は娘を抱きあげると、足どりも軽く松林の中まですたすた歩いて行った。
やがて三右衛門も戻って来た。
「他の者どころか、船の残骸すら打ち上げた兆しがねぇだよ」
「本まかい? こりゃぁどうしたこんだ。娘さん、事に依るとあんた一人が助かっただなぁ。本と運がええだわ」
と言って、未だに娘を抱きかかえたまま、
「これ、三右、晩飯の種がねぇだから、さっさと精出して茸ば探せや」
と急きたてた。
「五平どんも手伝ってくんろよ」
と、三右衛門が口を尖らす。
「分かってるだよ、ちとべ、待ってろ。この娘さんが少しは良くなるの見計らってから手伝うだから・・さっさと探しに行けってば」
と、五平は三右衛門を追い立てた。五平が木陰で娘を抱きとめていた手を残念そうに解き、そっと娘を木に寄りかからせて、水をやったりしながら介抱している。
三右衛門が、
(ちっ、五平どんばかりいい思いして、ずるいやっちゃ)
と、不満そうに横眼でチラチラ二人を見ながら茸を探している。
三の字とか三右とか呼ばれている三右衛門は、滅多に目にすることのない美しい娘を五平に横取りされた気分で、すこぶる面白くなかった。五平の娘を介抱する姿が、如何にも嫌らしかったのだろう。
やがて、娘も幾分回復し茸採りを手伝い始め、二つの魚籠いっぱいに茸が採れた。
五平は娘がさぞ腹が空いたろうと思い、茸を食べさせてやることにした。塩水で茸をさっと洗い、その場で火を焚いて石を熱し、焼けた石に茸を置き並べて焼くのである。三人はホクホク言いながら夢中になって食べた。魚籠が一つ空になった。木に寄り掛かり三人とも満腹顔になる。娘の貌も心なしか赤みが戻った。
西日の頃になって、五平と三右衛門は娘を連れて家に戻って行った。
小舟を漕いで南西の河口(野田川)を遡ると、谷筋に小さな村がある。南北に走る山並に挟まれた谷間にある加悦谷という村である。この谷筋の街道を南に行けば丹波国由良(福知山)で、北東に行けば丹後半島の東、若狭の湾岸を通る街道に通じる。そしてこの村の北の外れから北西に向かってまた谷筋の街道が走る、前述した峰山街道である。