負けたら……
私は明日、ライルがどこに行くのか、尾行することで頭がいっぱいだった。
よって夕食を終え、部屋に戻ると、入浴の用意が整うまでの時間。結婚式後の役目の一つ、お礼状の手紙にサインを入れることにした。これなら考え事をしながらでも、手が勝手に動いてくれるからだ。
お礼状の手紙。
それは結婚式に参列してくれた方々に、返礼品として贈る紅茶のギフトセットに添えるもの。御礼の手紙は、サインを手書きにするのが慣例だった。数は多いが、隙間時間に書き進めていたので、今日のこの分で最後だ。
なおわざわざ後日配送するのは、帰りの荷物を増やさないためと、遠方まで出向いてくれた御礼の意味を込めるためだった。
「若奥様、入浴の準備が出来ました」
「若旦那様より、入浴後、夫婦の寝室へ来るようにとのことです」
二つの知らせが同時に来て、思い出す。
そうか。
白い結婚であっても夫婦の寝室で一週間は過ごす必要があるのよね。
そのことを思い出し、何とも言えない気持ちになる。
今晩、夫婦の寝室に行き、顔を合わせたら。
また昨晩のようにライルは、自室へ戻るのだろうか。
使用人達や義母に、夫婦仲に問題なしを見せるため、形ばかりで夫婦の寝室で会うなんて。
空しい以外の何物でもない。
でも私から「無意味なので止めませんか」とは言えないだろう。
「若奥様、入浴されないのですか?」
フィオナに問われ、我に返る。
「入浴、するわ」とソファから立ち上がった。
◇
「きっと若旦那様がお喜びになりますよ!」
夫婦の寝室に向かう私のために、フィオナもメイドも懸命に美しくなるようサポートしてくれる。全身くまなくピオニー香油を塗ってくれて、髪も綺麗に乾かし、香油をつけてくれた。
シルクの肌触りの良いモーブ色の寝間着。
温かいウールのオフホワイトのガウンを着せてくれる。
さらに。
「きっと若奥様か若旦那様にそっくりのお子さんにも恵まれますよ!」
そんな風に言われると、本当に切なくなる。
でもぐっと気持ちを引き締め、その思いは呑み込み、夫婦の寝室へ向かう。
昨晩と同じ。
抑えられた明かりの中、ソファの前のローテーブルには、フルーツと飲み物。
フィオナが退出し、私はソファへ腰を下ろす。
昨晩、同じように座り、そしてリラックスするために歌を歌った。さらに気分が乗り、踊っていた私は……。
憐れなぐらい滑稽だ。
もしもあの時。
心配だ、不安だと言わなければ、ライルは私を抱いたのだろうか?
もしも……なんて考えても意味がないのに。
ため息をついたその時、扉がノックされ、ドキッとする。
お風呂上りと分かる、少し髪がしっとりしたライルが部屋に入ってくる。
濃紺の厚手のガウンは暖かそうで、触り心地もよさそうだった。
「アイリ」
ライルがその整った顔に柔和な笑みを浮かべた。
その優しい微笑みに涙が出そうになる。
「アイリはチェスは好きですか?」
そう言うとライルは背中に隠していたチェスボードを私に見せる。
「……チェス、ですか。それは……一応、嗜んでいますが、特に強いわけでは……」
「それは自分も同じです。戦場ばかり駆けまわっていた人間なので、チェスが得意かというと……。でもアイリとは一度やってみたいと思いました」
「……そ、そうですか……」
ライルは嬉しそうに私の隣に腰を下ろすと、フルーツを載せた銀の皿を端に寄せ、チェスボードを置く。そしてチェスピースを並べ……。
「賭けをしませんか。負けたら、相手の好きなところにキスをする」
なんでそんな賭けを……と思った。でもライルがあまりにも楽しそうにしているので、指摘する気持ちにならない。なんだか無邪気な子供のようなのだ。
「分かりました」と応じ、早速始めると……。
私は一度だって自分がチェスが強いと思ったことがなかった。
ユーリとチェスをやる時は、彼女を勝たせないと泣き出すので、わざと負けることも多かったのだ。その経験が積み重なり、自分はチェスが弱いのだろうと思っていたが……。
「アイリ、間違いなく、チェス、得意ですよね!?」
ライルが驚愕するが、私はまだ半信半疑。
「得意……というつもりはないのですが……。もう一度勝負いただいてもいいですか?」
「勿論です。むしろ、自分が勝負をお願いしたかったので、ぜひ」
そして二戦目、三戦目と続けるが、勝利は私。
そこで分かったのは、私はそこそこ強いのかもしれないということ。
ライルはそこまで弱いわけではないが、チェス慣れしていないということが判明した。
「多分、毎日のようにプレイすることで、ライルならすぐ上達すると思います」
「そうですか。ではこれからもお相手をお願いします」
「かしこまりました」と返事をしながら、夫婦の寝室で何をやっているのかしら?と思った時。
ライルが突然私の手をとるので、ドキッとする。
「全部で五敗したので、五か所、アイリの好きなところにキスをします」
夫婦の寝室でするに相応しいことを、ゲームで負けたからするなんて。
そう思えたのは一瞬のこと。
手の甲にキスをされ、余計な考えが吹き飛ぶ。
「私より小さくて、可愛らしいこの手がとても好きです」
鼓動が速くなり、切ない気持ちが込み上げた。
さらにすっと伸びたライルの手が私の首筋に触れる。
次の瞬間、ライルの顔が近づいたと思ったら……。
「ちゅっ」
額にキスをされたと分かり、体の芯がキュンとしている。
「額も小さくて愛らしいです」
そのまま移動した触れ心地のいい唇は、私の左頬にキスをした。
熱い息が右頬にも触れたと思ったら、そこにもキスをされている。
「頬は淡いローズ色で血色もよく……ずっと触れてみたいと思っていました。想像通りで柔らかく、温かい……」
そこで言葉を切り、ライルが耳の近くで甘くささやく。
「小さくてふっくらして、チェリーみたいな唇も好きです……」
思わず全身から力が抜けそうになったが、ライルが私の腰に腕を回し、顎を持ち上げ――。
唇が重なった。