どうか寛大な御心で
不意に近づいた顔。
一瞬お互いの鼻先が触れ、ライルの吐息を感じる。
さらに距離が縮まり、唇が重なる……!
心臓が止まりそうになったまさにその時。
「申し訳ありません! 婚姻前なのに!」
私の両肩を自身の手で掴み、グッと自分から離すと、ライルは謝罪の言葉を繰り返す。
私はなんと言えばいいか分からず、口をぱくぱくさせることになる。
結局、私が掛ける言葉を見つけられないまま、ライルはお辞儀をして逃げるように早足で去って行く。
そこで私は懸命に言葉を紡ぐ。
「ウィンターボトム侯爵、お酒も飲まれていたのです。酔いが回り、普段とらないような行動をとってしまった。勿論ルールとして、婚姻前の男女のこのような接触が禁じられていることは、分かっています。でも……私は……嫌ではなかったです」
かなり離れた距離まで移動していたライルが、立ち止まった。
そう思ったら、足早に戻ってくると……。
突然、ぎゅっと抱きしめられ、先程以上にドキンと心臓が反応する。
同時に。
ライルがつけている香水を感じる。
自身の商会で扱っている香水なのだろうか。
さっぱりとしたミントの香りがする。
「あなたをこの地に無事迎えることができて、本当に良かったです。……そして今のご無礼は、お酒に飲まれた自分の醜態。どうか寛大な御心でお許しください」
そこでさらに抱きしめる腕に力を込めた後、ゆっくり私から体を離した。
そして酔っているとは思えないスマートさでお辞儀をすると、扉を開け、中へ入るよう促す。
私が中に入ると、眩しい程の笑顔を浮かべ「おやすみなさい」と告げる。一瞬、見惚れてしまうが、慌てて「おやすみなさい」と応じると、扉がパタンと閉まった。
心臓がまだドキドキしていた。
ただ抱きしめられただけで、こんなにドキドキしてしまうなんて。
私……もしかして何かの病気だったりする!?
ソファに座り、クッションを抱きしめ、しばし呆然。
ライルの香水。本当に爽やかだった。
それに改めて感じた引き締まった体と腕の力強さ。
見た目は貴公子だけど、その体と力に、騎士であることを再認識する。
そしてドキドキもしたが、あの胸の中にいることへの安心感もあった。
ユーリがライルの素顔を知らず、縁談話を私に押し付けてくれて、良かったわ……!
そんな風に噛み締めていると、フィオナが来て入浴の準備が整っていると教えてくれる。
今日は午前中に髪を洗っているので、体を清めると、早々にベッドへ潜り込む。
いろいろあった一日。
すぐに眠りに落ちた。
◇
「ここに亡くなった者達の冥福を祈り、鎮魂の歌を捧げる」
ライルの涼やかな声が、聖堂の中で響き渡る。
聖堂で行われた弔いの儀には、王都から来ている騎士も全員参加し、義母も参列してくれた。
聖歌隊の祈りの歌が響き渡る。
これから順番に、棺に白い百合を入れて行く。
ライルに促され、立ち上がり、祭壇の方へと進む。
蓋の開いた棺を見ると……。
亡くなった御者と従者。彼らはそれぞれの棺の中で、安らかな顔をしていた。ライルの指示で綺麗にその体は清められ、傷なども縫合されている。
丁重に弔われていることに安堵し、そして――。
今にも目覚めそうに思えるのに、既に帰らぬ人であることに、涙がこぼれてしまう。
盗賊の危険は分かっていた。ユーリがピンクダイヤモンドが欲しいなどと我が儘を言わず、護衛の兵士をちゃんとつけてくれていたら。馬車を新調していてくれたら。この悲劇は起こらなかったと思うが、過去は変えることができない。
ぐっと悲しみを呑み込み、二人の冥福を祈る。生き残った使用人達も、次々と百合の花を棺に納めた。
王都に残された親族には、ライルの指示で先に訃報が届けられている。その際、弔慰金もちゃんと渡してくれたと言う。
本来、ミルフォード伯爵家が弔慰金を渡すのが慣例。だがライルは「道中の安全を確保できなかった責任は、自分にもある」と言って、慣習以上の金額を包み、使者に持たせている。
防腐処置も施された棺の遺体は、精鋭のウィンターボトム家に仕える兵士に守られ、王都を目指す。先頭を行く馬には、私達を襲った盗賊の頭領の首が、槍に串刺しにされ、掲げられるという。取り調べが終わり、改心を問うたが、頭領は唾を吐いて拒絶。騎士団長と侯爵としての権限で、過去の罪を含め、処刑が遂行されていた。
その頭領首に加え、堂々とウィンターボトム家の紋章のついた旗も掲げるという。
この葬列の意味――森に潜む盗賊により、奪われた命。もし再び手を出すなら、この盗賊のような末路を辿る。
さすがにこれを見て、手を出す盗賊はいないだろう。もしも無謀な輩が動いても、弔い合戦になる。盗賊側の被害が甚大になることは、確かなのだ。さらに今はこの森に領地が接していても、ライルは盗賊達の討伐など行うことはなかった。戦場に出ているため、その時間もなかったと思う。でもこの葬列に手を出したら……。
この森の所有者……戦地になってからは、国有林として国の管轄になっていた。ゆえに国王陛下に許可を取り、盗賊に加え、大規模なならず者一掃作戦を、ライルは敢行するだろう。
それは森の中にいるならず者も分かっているようだ。葬列は問題なく森を抜けることができたと、翌朝に報告が届くことになるが……。
今は弔いの儀式がまさに終わったところ。
屋敷に戻り、喪服から空色のドレスに着替えると、昼食の時間だ。
ライルも黒のスーツから濃紺のセットアップに、義母もラベンダー色のドレスに着替え、昼食の席に現れた。
義母は午後はベッドで休むというが、弔いの儀式にも昼食にも参加している。毎日のように、一日中寝込んでいたことが、嘘のようだと使用人達も話している。
私が嫁ぐことで、義母が元気になってくれたなら……これほど喜ばしいことはない。
「ではミルフォード伯爵令嬢。馬車の用意が出来次第、街へ行きましょう」
昼食を終えると、ライルが少し頬を赤くして、私に微笑んだ。