3-2
ふと作業の手を止めたネーアが顔を上げると、壁の時計はすでに作業開始から結構な時間が経過していることを示していた。
「リサ君。この辺りで一区切りとしようじゃないかね」
声をかけるが返事が無い。
連日の集中講義により、驚くべきことにリサは日常生活ならば支障が無いレベルまで日本語を習得していた。その結果、十夜は晴れて通訳をお役御免となり、リサは『銀糸境界』の表の顔であるアンティークショップの見習い店員として過ごしている。
ちなみに今日のリサの仕事は倉庫整理だった。一見なんでもない作業のように思えるが、倉庫の中には魔術に関わる品も数多く収納されている。下手に触ると危険な品物もあるため、さすがにリサ一人だけに任せるわけにはいかず、ネーアがサポートについているというわけである。
なので、リサも同じ倉庫内にいるはずなのだが……辺りを見回せば、うず高く積まれた物品の陰から緋色の髪がはみ出しているのが目に留まり、ネーアはやれやれと溜息をついた。
「リサ君、何をしているのかね?」
「ひゃあっっ!?」
背後に回って肩を叩いてみたところ、ネーアとお揃いの作業着に身を包んだ少女は、跳び上がって奇妙な声を漏らした。
慌ててキョロキョロと周囲を確認すると、今度は安堵の息を吐く。
「Huu、&%#*\……じゃなかった、びっくりしたぁ」
聞きなれない言葉で胸をなでおろし、慌てて日本語に言い直したのはもちろんリサである。咄嗟の時には使い慣れた母語が出てしまったが、こちらの世界に順応するためにも、可能な限り日本語で会話するようにしているのだ。
「ふむ、その様子だとサボっていたようだね」
「あ、これは、その……ごめんなさい。片付け中に見つけちゃって、つい」
ばつの悪そうな表情でリサが差し出したのは、倉庫の中に山と積んであった魔術書のうちの一冊だった。
内容は地球における魔術の基礎知識で、魔術の道を志す者ならば必ずお世話になると言っていい必携の書である。ちなみに世界各国の言語に翻訳されており、魔術師の業界ではベストセラーとのこと。
とは言え、『銀糸境界』はその特性上、普通の初心者魔術師が所属することはまず無いため、その魔術書も倉庫で埃をかぶっていたわけなのだが。
「リサ君は随分と魔術が好きなのだね。今習得している程度の語彙では、その本に書いてある内容は半分も理解できないだろうに」
「好きというか……もう自分の一部みたいなものかしら。それでなくても、異世界の魔術なんて興味を惹かれないわけないじゃない。完全には理解できなくても、挿絵とか一部でも読み取れれば類推することはできるし。それに実用面だって、【返しの風】の逸らし方なんて、こっちでは初心者用でも私には垂涎物の知識よ。もちろん、魔術理論の違いを考察するのも楽しいわね。例えば、呪素――この本だと素律子の供給については仮説が根本的に大きく違っていて、私の世界では」
「ああ、君が魔術に並々ならぬ関心を抱いていることは十分伝わったから、一旦そこで止まって欲しいのだがね」
語り始めたら興が乗ったらしく、目を輝かせて考察を垂れ流し始めたリサを片手で制し、ネーアはふむと呟いた。顎に手を当てているその姿は、彼女が何かを思索、もしくは企んでいる仕草だということを、まだ数日の付き合いしかないリサは知る由も無い。
だが、今回に限っては助け舟が現れた。ネーアが突拍子もないことを言い出すよりも早く、十夜がやって来たのである。
錆の浮いた金属同士の擦れる音が響き、倉庫の扉がゆっくりと開かれる。最低限の照明は点いているものの薄暗く見通しの悪い室内に外の光が差し込んだかと思うと、枯れ草色のコート姿が顔を覗かせた。
「首領、そろそろ時間じゃないですか?」
「そういえばそうだったか。待たせてしまったようですまないね」
十夜の呼びかけにネーアもふと我に返る。元々、十夜には届け物をして欲しいと頼んであり、そのついでとして取引先への顔見せも兼ね、リサを連れていくこととなっていた。
それが出発まで間もなくという時刻になっても誰もやって来ないので、仕方なく様子を見に来たのだろう。
そんな無言の催促の空気を気にも留めず、ネーアはリサの姿を頭からつま先まで眺め回すと、平坦な声音でダメ出しをした。
「リサ君、出かける前に着替えてくると良い。そんなに埃まみれでは先方にも失礼だからね。焦らずとも、約束の時刻まではまだ余裕があるので、慌てる必要はないとも」
ついでの人員とはいえ、作業着姿のまま取引相手のところに送り出すわけにもいかないため、身支度してくるように指示を出す。サボっていたところを見つかった負い目があるのか、リサは大人しくこくりと頷くと、そそくさと倉庫を出て行った。
「じゃあ首領、俺は店の前で待ってますんで、あいつの準備ができたら来るように言っておいてください」
「待ちたまえ、十夜君」
リサの後を追うようにその場を立ち去ろうとした後姿を呼び止めると、呼び止められた当人はきょとんとした表情で振り向いた。
「何ですか?言っときますけど、冷蔵庫の中に入っていた貰い物のケーキをつまみ食いしたのは、俺じゃなくてちびっ子ですからね」
「迷わず子供を売る君の行状には一度灸をすえる必要があるのだろうが、今はその時ではないよ。君自身のことだ」
「はあ、俺ですか?」
お説教の始まりを予感した十夜は、困惑した様子で頬の傷を掻く。日頃の行いにあまり自信のある身ではないため、何を言われるか心当たりがあり過ぎ、逆に見当がつかないのだろう。
「その通り。これでも私は、伊狩から君のことをくれぐれもよろしくと頼まれているのでね。こうして気に掛けるくらいはさせてもらうよ」
その名前を出すと、十夜は拗ねたように唇を曲げた。いや、実際に拗ねているのだ。この青年は、特定の話題に関しては妙に子供っぽくなる。
「師匠、ね。確かに、俺がここにお世話になっているのは、師匠のツテですからね」
「その通り。だが『銀糸境界』に来てからというもの、君からはやる気や熱意というものがほとんど感じられなかった」
完全な無表情のまま、ネーアは鋭く指摘する。実際、十夜が『銀糸境界』の居候となって半年以上が経っているが、その間に魔術組織の一員として活動したことはほとんど無かった。つい先日、リサを逆召喚してしまった一件が、唯一の活動成果のようなものである。
とはいえ、それは十夜が『銀糸境界』に籍を置くにあたって交わした契約により、正当に認められている権利ではあるのだが。
「だからこそ、リサ君が来てからの君の変化には、私も期待させてもらっているのだがね」
「変化、ですか?特に何かした記憶は無いんですが」
そう言って首を傾げる十夜。対するネーアは、表情こそ変えないものの、苦笑するような気配を醸し出してみせた。
「リサ君のトラウマを抉るような物言いをしたそうじゃないか。おまけに『やる気を出すことにした』と聞いたがね」
まるでその場に居合わせたかのようなネーアの物言いに、先日リサに街を案内した際のやり取りが十夜の脳裏をよぎる。リサ本人から聞いたのか、あるいは何らかの監視手段を用いていたのか。どういう経緯でその情報を入手したのか聞きたいところだが、問い詰めたところで簡単に白状する相手でないことは、重々承知している。例えば、不安要素であるリサを密かに監視していたと言われてしまえば、それに異を唱えることは難しいだろう。
そう考えると、この状況はまるでお釈迦様の掌の上といったところか。
どうにも完全に見透かされているという結論に至るが、それを表情に浮かべることなく、十夜は気の抜けた笑みを浮かべて見せた。
「やる気を出すって言ったって、そこそこ程度ですよ」
「これまで全くやる気を見せなかった君の言葉だと考えれば、空が落ちてくるほどの大事件ではないかね?」
「ぐぬぬ……」
打てば響くような切り返しで反論を封じられ、十夜は歯噛みした。別段意地を張るほどの話ではないはずなのだが、どうしても抗いたがってしまうのは、師匠の教えの賜物か、あるいは彼自身の生来の気質か。
そんな十夜の様子を眺めながら、ネーアはふと語り掛ける言葉の調子を変えた。組織の上司という立場から、まるで保護者にでもなったかのように穏やかに、
「もしかすると、君は彼女に共感を覚えているのかもしれない。どうにもそんな風に思えてしまってね」
「……アインの奴も似たような探りを入れてきましたよ」
さもありなん、とネーアは頷く。十夜の事情を知っている者からすれば、どうしてもそう見えてしまうものだろう。
一方、当人であるところの十夜はというと、どうにもすっきりしない面持ちだった。
「正直な話、俺にはさっぱりなんですがね。まあ、アインの奴なら、自覚が無い分厄介だ、とか言いそうですけど」
「もちろん、私にも判然とはしないがね。だが、これまで目立った行動を起こさなかった君が、わずかとはいえ自主的に動く気配を見せている。これは大きな進歩だと、私は考えてしまうのだよ」
そこで言葉を切ると、ネーアは壁の時計に目をやった。話し込んでいたのはわずかな時間のつもりだったが、気付けば予定時刻ぎりぎりとなっていた。
正直、どこまでネーアの意図が伝わったかは分からないが、少なくとも言うべきことは言ったはずである。そんな自己評価を下すと、ネーアは考え込んで立ち尽くしている十夜を追い出しにかかった。
「さあ、リサ君もそろそろ準備を済ませている頃だね。引き続き、彼女のことをよろしく頼むよ」
「へいへい、分かりましたよ。しがない下っ端はおとなしく、首領様の命令でこき使われてきますよ」
先程までの空気を紛らわせるように、わざとらしく軽口を叩きながら十夜は蔵から出て行くのだった。
■◇■◇■◇■
年季の入ったミニバンのハンドルを握る十夜の隣で、リサは後方に流れ飛んでいく景色に目を奪われていた。
狭河市を案内してもらった日にもタクシーに乗りはしたが、この世界の技術に気を取られるあまり、車窓からの眺望をじっくり楽しむ余裕は無かったのである。それに先日通ったのはほとんどが市街地だったが、今日走っている道路は郊外に向けて伸びていた。必然、人工物の割合が減り、青々とした樹々や草花が視界に飛び込んで目を楽しませてくれる。
「やっぱり速いわね、この自動車って」
そんな光景を十分に堪能したところで、リサは知らず知らずのうちに、抑えていた感嘆の声を漏らしていた。
「そっちの世界じゃ、移動の足は基本的に馬車だって言ってたっけか。どのくらいの速度が出るもんなんだ?」
ハンドルを握る十夜は、視線だけはおざなりに前方に向けたまま、助手席に座るリサに尋ねた。リサは高速で過ぎ去っていく景色を何とはなしに眺めながら、暗算ではじき出した数値を答える。
「そうねぇ、距離と時間から換算してこちらの単位に合わせれば……時速で10kmちょっとってところかしら。【疲労軽減】や【敏捷強化】の魔術が使える御者なら、少なく見積もっても二割増しにはなると思う。そう考えると、自動車の速度は異常ね。魔術も無しに、こんな速度を長時間維持できるなんて……」
己の中の常識との落差に、思わず頭痛を感じてしまう。その様子を見る限り、鉄道や飛行機の存在はしばらく伏せておく方が賢明だろうと、十夜は胸中で呟いた。またぞろ好奇心の蟲が騒ぎ出してしまえば、厄介な状態になること請け合いだからだ。
「それはともかく、目的地まであとどのくらい?」
「もうすぐだ。あの丘を越えた先に人目に付きにくい取引場所がある」
十夜の言葉通り、緩やかな丘陵を越え、一見すると寂れて放棄されたように見える脇道に入る。ガタガタと揺れる林道を更に進むと、唐突に開けた場所に出た。
リサが召喚されてきたあの広場より確実に二回りは広いそこは、一応は舗装されているらしく、ここに来るまでのデコボコ道より車体の揺れは少ない。広場の奥には、二階建ての洋館が陰鬱な影を伴って聳えていた。
「ここが目的地なの?」
「ああ。あの建物の中で受け渡しだ。今回はこいつだな」
広場の片隅にミニバンを駐車させた十夜は、後部座席から頑丈そうなスーツケースを引っ張り出した。
詳しいことは聞いていないが、『銀糸境界』と交流のある魔術組織から調達を依頼された品らしい。ネーアが説明しようとしてくれていたのだが、当の十夜自身が興味を示さなかったので、ケースの中身についての知識は持っていなかった。
頑丈そうで厳めしい見た目に反してさほどの重量は無いのか、十夜は片手に軽々とスーツケースを提げると洋館に向かって歩を進めた。
ところが、洋館まであと二十歩を切ったところで、洋館の扉がゆっくりと開き始めた。
思わず足を止めて扉を注視する二人を焦らすように、扉は時間をかけて開ききると、中から一人の人物が姿を現す。
それは褐色の肌と金色の瞳を持つ少年であった。
「子供?こんな所に?」
首を傾げるリサとは正反対に、十夜の方は相手の姿に見覚えがあった。
「そういやいたな。自信満々で出てきた割にあっさり手駒を潰されて、どさくさ紛れに逃げ出した小僧が」
過分に挑発の意図が含まれた十夜の呼びかけに、その少年は照れ笑いをもって応じる。
「はははっ、事実なだけに反論できないや。でもまあ、僕にも僕の事情があるものさ。それにやられっ放しも性に合わないから、ちょっと相手をしておくれよ」
そう言って、《魔獣使い》ザハク・アウランドは無邪気に微笑んだ。
十夜の師匠は保護者能力が著しく低いため、知り合いに丸投げしたとかなんとか。