終着点
魔術師の首を跳ね飛ばした剣が、俺の手の中で嫌な熱を持って震えていた。
地面の上に広がった二種類の血。男爵の「愛」の血と、魔術師の「欲」の血。
それらが混ざり合い、真っ黒な泥のように足元を汚していく。
(終わった。すべて、終わったんだ)
俺は剣を捨て、その場に崩れ落ちようとした。
だが、その時。
霊峰の頂が、悲鳴を上げるような音を立てて震え始めた。
「……地震か!?」
祭壇が内側から激しい鼓動音を立て、亀裂が走る。
信じられない光景だった。祭壇に飛散していた血が、まるで意志を持っているかのように逆流し始めたのだ。
男爵の心臓から溢れた鮮血も、俺が殺めた魔術師のどろりとした返り血も、すべてが一箇所へと収束していく。
冷たくなっていたはずのリリアの亡骸へと。
「嘘だ……。一体、一体何が起きている……」
血の奔流がリリアの亡骸を包み込み、巨大な繭のようになっていく。
それは脈を打つように激しく明滅し、次の瞬間、鼓膜を震わせるほどの音を立てて弾け飛んだ。
衝撃に顔を覆い、恐る恐る指の間から前を見る。
「…………あぁ」
声にならない溜息が漏れた。
そこには、祭壇の前に凛として立つ、一人の女の姿があった。
傷一つない、美しい生きた肌。夜の闇よりも深い、濡れたような髪。そして、すべてを見透かすような、あの紫色の瞳。
リリア。
彼女は、死の淵から蘇った。
「一体どうして……。儀式は、偽物だったはずだ……!」
俺は魔術師の死体に目をやる。彼女は俺を騙したと言った。この儀式に意味などないと。
リリアは、俺の動揺を慈しむように、優雅な所作で髪をかき上げた。
「いいえ。その魔術師? も知らなかっただけよ。この祭壇が求める真の対価をね」
リリアの声が、山頂の冷たい空気の中に溶け込んでいく。
「この祭壇に必要なのは『真実の愛』……そして、それと対になるほどの純烈な『真実の憎しみ』。愛と憎しみ、その両極を同時に捧げることで、初めて儀式は完成するのよ」
俺は、血塗られた自分の手を見つめた。
男爵が捧げた、狂気じみた「愛」。
そして、俺が魔術師に向けて放った、抑えきれない「憎しみ」。
俺が魔術師を殺したかったというその衝動が。
俺が正義を汚されたと感じたその怒りが。
皮肉にも、俺が最も憎んだ化け物を呼び戻すための、最後の鍵となってしまった。
俺の正義感も、罪悪感も、復讐心も。すべては運命に翻弄されただけだった。
リリアは俺に目もくれず、ゆっくりと膝をついた。
彼女が抱き上げたのは、冷たくなった男爵の亡骸だ。
彼女は愛おしそうに、男爵の泥に汚れた頬を撫でる。
「…………」
リリアの目から、一滴の涙が零れ落ちた。
その雫が、男爵の切り裂かれた胸に吸い込まれた瞬間。止まっていた男の心臓が、最後の一火を燃やすように、一度だけ大きく跳ねた。
「あぁ……リリア……」
男爵の目が、微かに開いた。
焦点の合わない瞳が、愛しい女の姿を捉えている。
「良かった……。成功……したんだね……。ああ、君は……なんて、美しいんだ……」
それは、とても幸福に満ちた、掠れた囁きだった。
男爵は満足げに微笑むと、今度こそ、安らかな眠りにつくようにその瞳を閉じた。
男爵にとっては、これが真実の救いだったのだろうか。自分が利用され、駒にされたことなど、男爵にはもう関係のないことだったようだ。
俺は、血塗られた剣を握りしめたまま、ただの置物のように立ち尽くしかなかった。腕は鉛のように重く、指一本動かすことができない。
リリアが、ゆっくりと顔を上げた。
彼女は俺を、殺そうとはしなかった。
ただ、慈しむような、あるいは永遠に解けない呪いをかけるような、深い慈愛を込めた瞳で俺を見つめた。
「ねえ、言ったでしょう?」
その唇が、かつてあの過ちの場所で囁かれたのと同じ言葉を紡ぐ。
それはもはや、男をたぶらかすための誘惑ではない。
抗いようのない、絶対的な事実としての響きだった。
「真実の愛はあるわ。――あなたが信じないだけで」
その言葉が、俺の胸に楔のように打ち込まれる。
俺は悟った。
自分が最も憎んだ化け物を、自分の憎しみによって蘇らせただけだと。
雪が降り始めた霊峰。
雪に覆われていく霊峰に、リリアの静かな泣き声が響く。
俺はただ、自分の憎しみが生み出した「奇跡」の前に、永遠に膝をつき続ける事しかできなかった。




