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死体はともだち  作者: 定上栄
一章:少年の決意

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ずっと待っていたの

 まるで鎖をかけられたかのようだった。「待っている」と言われたから、彼女のもとに行くべきだと考えてしまう。

 月光に照らされた冷たい廊下が頭から離れず、日常生活に身が入らない。

 これまでの人生経験とはまた別の、抗いがたい引力そのものだ。


 路線バスの窓に、痩せた少年の横顔が映っている。

 鞄から薄紅色のハンカチを出して眺め、刺繍の表面をわずかに指でなぞった。柔らかい。


 ぼくの血がついたハンカチを返すわけにはいかないので、今日は商店で買った新品を渡すつもりだ。



「次はなめさかー、なめさか」


 高気圧で蒸したバスの中に、アナウンスの棒読みが響き、はっと我に返った。

 祝賀会の夜の真意を考えているうちに、いつの間にか最寄りのバス停まで来ていた。


 離島・硝子島、滑坂山(なめさかやま)斜面に建っているわたつみ。

 施設の構造からして地下病棟が存在するはずだが、パンフレットや施設案内には存在が掲載されていない。

 恐らく外部者の立ち入りが制限されているのだろう。


 わたつみのエントランスには、入所者を癒すためか仄かに線香のような匂いが漂っている。

 霊安室のように穏やかだ。


 受付口で応対したのは、祝賀会の夜に雄真と抱き合っていた看護婦・弓子さんだった。

 引っ詰め髪とナース服を纏っていても、エキゾチックな美貌でわかる。


 雄真と肉体関係を持っておきながら、息子と平然と話せる事実が気味悪く、彼女と目線を合わせられない。

 両親とも弓子さんとも何も話したくなかった。


 だめだ。

 感情を殺せ。



「……地下病棟の患者に会いたいです」


「地下? 何しに来たの」


 弓子さんが顔を上げた。

 視線が一気に鋭くなり、毒蛇のごとく絡みつく。



「ぼく、谷崎雄真の息子の真理です。希子さんに会いにきました」


 緊張とはったりを悟られないように告げると、弓子さんは頷いた。



「……ああ、雄真先生が教えたのね。いいわよ」


 ぼくは対話ボランティアとして中に入り込むことにした。


 通常であれば、ボランティア団体に所属し事前研修を受けて、素性と目的を説明し、受付で名前を書いて、入所者とのすり合わせが行われてやっと面会ができる。


 だが『わたつみの坊ちゃん』――いわば身内たるぼくなら、事実上フリーパスで出入り可能となっている。

 患者やボランティアに対する説明も不自然なほど少なかった。


 彼女は希子さんの簡単なプロフィールが書かれた紙を取り出して、付け爪だらけの手を三本立てる。

 看護婦にはとても似つかわしくない爪だと思った。



「決まりは三つ。一つ、希子ちゃんと必要以上に面会することは禁止、ナースコールが鳴ったら必ず退出するように。二つ、希子ちゃんを他の患者やナースに接触させることは禁止。三つ、地下で起きたことは公言禁止。……以上よ」


 会うな、会わせるな、話を広めるな?


 ばかばかしい。ボランティア登録はザルなのに、決まりだけは厳しいときた。



「地下での会話、話しちゃいけないんですか?」


「安全保護のためよ。くれぐれも粗相のないようにね」


「……わかりました」


 やけにゆっくりと囁かれる。


 地下病棟は異様に静かだった。

 遠くから看護婦の疲れた咳が聞こえてくるばかりで、患者の姿はほぼ見えない。


 自然光の入らない暗い廊下。

 クリーム色の壁と薄緑のリノリウムの床が四メートル程続いている。

 冷たく湿っぽい空気で満たされ、病床につきものの倦んだ雰囲気を纏っていた。


 窓には鉄格子がはめこんであり、監視カメラの赤い光が点滅し続けている。

 そのレンズが自分を追っている気さえした。

 サナトリウムというよりは監獄や金庫に近い。

 金の延べ棒や宝石が置いてあるわけでもないのに、なぜ?


 案内された病室の名札をそっと盗み見る。

 先日の彼女の本名は文島希子(ふみしまのりこ)らしい。


 病室の扉を開くと、ふわりと甘い蓮の匂いがした。

 廊下とは打って変わって明るい雰囲気だ。

 白い壁紙で囲まれた部屋の中に、清潔なシーツに包まれた医療用ベッド、サイドテーブルが一つずつ。


 そしてベッドにもたれて座る少女こそ、部屋の主・希子さんだった。



「ずっと待っていたの。うれしいわ」


 先日見かけたネグリジェワンピースではなく、和服に似た病院着に身を包んでいる。

 彼女はぼくの表情を窺い、薄い唇を丸めて静かに微笑む。



「わたし、文島希子。よろしくね」


「……谷崎真理。中学三年生」


 ぼくは本名からして異質だ。

 よそ者のインテリ階層が選んだ、思想じみた硬い響きの単語は、田舎の漁村では全く馴染まない。

 祝賀会の夜、彼女に名前を呼ばれたことを思い出した。


 居心地の悪さを誤魔化すように、鞄から小さな包みを取り出す。



「祝賀会の夜、きみがくれたハンカチなんだけど。あの後汚してしまったから、新しいのを買ってきたんだ」


 自分の声が思ったより強張っていた。

 立場上徹底して避けてきた他者との情的な接触が、強制的に始まっている。



「いいのよ。あれは、あなたに貸してあげるために持ってたんだから。それより、どんなハンカチを選んでくれたのか、楽しみだわ」


 病室を見回すと、壁には画用紙が何枚も貼られていた。

 色鉛筆の力ない筆致で、子どもたちを抱きしめるお母さんが描かれている。


 壁一面には児童用のおもちゃがずらり。

 可愛いお人形とドールハウス、千羽鶴、『赤毛のアン』『若草物語』など子供向けの文庫本が所狭しと並べられていた。

 しかしよく見ると、壁際に置かれたドールハウスは壊れていた。

 メルヘンな紅色の屋根は半分ちぎれて、中がむき出しになっている。


 ベッド脇のサイドテーブルには古い写真立て。

 両親と、兄らしき青年たち、幼い希子さんが写っている。

 背景は、鄙びた硝子島とは似ても似つかない大豪邸の庭で、大型犬が傅いていた。


 写真立ての硝子に積もった薄い埃を指でなぞりながら、ふと息を詰めた。



「……写真に写っているのは、きみの家族か?」


「そうよ。周二お兄ちゃん。わたしの願いを何でも叶えてくれる優しいお兄ちゃんだったわ」


「だった。なら、今は?」


「そうね」


 言いながら、さりげなく指を組む希子さん。



「……みんな、忙しいから」


 希子さんはぎこちなく笑うが、大きな目はどこか潤んでいる。



「希子ね、小さい頃から体が弱くて……。パパが、わたしをわたつみに送るって決めたのよ。パパもママも、お兄ちゃんたちも、とっても忙しいからお見舞いに来れないの」


 そこでぼくは、病室に家族からの手紙が一つも見当たらないことに気づいた。



「ボランティア登録の時、書類で見たよ。きみの誕生日は四月だっただろう? 名古屋の家族から連絡はあったのか?」


「誕生日は……何もなかったけれど、忙しいからよ」


 希子さんの小さな手指がシーツを弄んでいる。

 自分は家族に見捨てられていないと言い聞かせる、必死の強がりのように聞こえてしまう。



「わたし、ずっと入院しているから……雄真先生の赤ちゃんがどんな子か、島でどんな目にあっているか、噂で知っていたの。だから祝賀会の夜、あなたの視線の奥底に、痛みと悲しみがあること、気づいたわ」


 息が詰まる。



「皆があなたにしてきたこと、信じられない。ひどいわ。まるで生贄じゃない」


 希子さんの声がかすかに揺らぐ。

 彼女は涙ぐみながら震えていた。



「あなたって、ずっと一人で頑張ってきたのね。わたしならきっと耐えられない。何もできなくて、ごめんなさい」


「きみが……謝ることじゃないよ」


 それ以上何も言えなかった。

 言葉を選べず、沈黙に終始してしまう。


 殺しそこねた感情が鮮烈に痛んだ。

 生まれた時から当たり前にあった個人的な苦しみを、希子さんはやさしくすくい上げて、柔らかい言葉に変える。



「けれど真理、人間は多面体なんだわ。あなたは雄真先生とは違うもの」


 希子さんの小さな手が、ぼくの手を握りしめる。

 視線を落としたまま、小さな指の柔らかさを感じていた。

 冷たい掌と触れ合うことが不思議と嫌ではない。


 ぼくはゆっくりと手をほどき、ベッドのそばにスツールを用意して座る。

 逡巡しつつ、口を開いた。



「希子さん。きみの友達になるよ。対話ボランティアに登録したから、いつでも来られる」


「ありがとう。うれしいわ」


 希子さんははにかんで俯いた。


 それから一瞬、言葉を選ぶように目を伏せて、


「……わたしね。小学校に通っていた頃、将来の夢の作文に『お母さん』って書いたら、男の子に『子どもみたい』って皆の前で笑いものにされたの。それ以来、男の子も友達作りも怖くて苦手」


 そんな風に揶揄う男の子がいたのか。

 小学生らしいといえば、らしい。


 それから彼女はゆっくりと顔を上げて、間を空けてから微笑んだ。



「だから、こんなに自然に話せた子はあなたが初めてよ。真理。わたしたち、親友になれるわ」


「それなら、よかった」


 希子さんはそっと目を伏せて、やがて満足そうに笑った。

 まるで小さな花の蕾が緩やかに開くようだった。

 細い指が掛け布団をわずかに握りしめている。



「ところで、きみが祝賀会の夜に言っていた『叶えたい夢』って何なんだ?」


「まだ全部は教えられないけれど……そうね。真理、顔を近づけて、耳を貸して」


「どうかしたのか?」


 どういう意図なのか訝しみながらも、言われるまましゃがみこみ、ベッドへ身を乗り出す。

 すると、小さな手がぼくの耳を両手で囲って、ひそひそと囁かれた。



「あのね、貝殻を拾ってきて欲しいの!」


「……貝殻? どうして?」


「昔、パパのクルーザーに乗って遊んだの。さざ波の音を思い返すと、家族や友達がまだそばにいてくれている気がするのよ」


 耳朶に吐息がかかってくすぐったい。


 希子さんは身を離して、そして少し恥ずかしそうに身をすくめて目を伏せた。



「わたしね、死ぬ前に一度でいいから、また海を見てみたい」


「……硝子島の海なんて汚いだけだよ」


「それでもいいの」


 吊り目がちの瞳が細められる。


 現実の硝子島は荒涼とした日本海に囲まれていて、彼女の思い出の中にある穏やかな太平洋とは違うはずだ。

 けれどきっと、彼女にとっての海や貝殻は、過去の幸せな記憶をなぞるための象徴なんだろう。


『お盆になると、死者が水辺に現れて引き込んでくる』という民間伝承をふと思い出した。


 今日はお見舞いだけにして帰ると伝えると、希子さんは寂しそうに微笑んだ。



「また遊びに来て頂戴ね」


 頷きだけを返し、わたつみを後にした。


 会話の余韻に浸るうち、祝賀会の夜希子さんを疑った自分が後ろめたくなってしまった。

 種明かししてみれば何てことはない。

 希子さんは院内の噂話でぼくの素性を知っていただけ、余命わずかの少女が最期に海を見たいと願っていただけ。


 純粋な彼女を守りたい。


 地下病棟でささやかな夢を見る希子さんを、異常な島の生贄にしてなるものか。

お読みいただきありがとうございます。

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