ずっと待っていたの
まるで鎖をかけられたかのようだった。「待っている」と言われたから、彼女のもとに行くべきだと考えてしまう。
月光に照らされた冷たい廊下が頭から離れず、日常生活に身が入らない。
これまでの人生経験とはまた別の、抗いがたい引力そのものだ。
路線バスの窓に、痩せた少年の横顔が映っている。
鞄から薄紅色のハンカチを出して眺め、刺繍の表面をわずかに指でなぞった。柔らかい。
ぼくの血がついたハンカチを返すわけにはいかないので、今日は商店で買った新品を渡すつもりだ。
「次はなめさかー、なめさか」
高気圧で蒸したバスの中に、アナウンスの棒読みが響き、はっと我に返った。
祝賀会の夜の真意を考えているうちに、いつの間にか最寄りのバス停まで来ていた。
離島・硝子島、滑坂山斜面に建っているわたつみ。
施設の構造からして地下病棟が存在するはずだが、パンフレットや施設案内には存在が掲載されていない。
恐らく外部者の立ち入りが制限されているのだろう。
わたつみのエントランスには、入所者を癒すためか仄かに線香のような匂いが漂っている。
霊安室のように穏やかだ。
受付口で応対したのは、祝賀会の夜に雄真と抱き合っていた看護婦・弓子さんだった。
引っ詰め髪とナース服を纏っていても、エキゾチックな美貌でわかる。
雄真と肉体関係を持っておきながら、息子と平然と話せる事実が気味悪く、彼女と目線を合わせられない。
両親とも弓子さんとも何も話したくなかった。
だめだ。
感情を殺せ。
「……地下病棟の患者に会いたいです」
「地下? 何しに来たの」
弓子さんが顔を上げた。
視線が一気に鋭くなり、毒蛇のごとく絡みつく。
「ぼく、谷崎雄真の息子の真理です。希子さんに会いにきました」
緊張とはったりを悟られないように告げると、弓子さんは頷いた。
「……ああ、雄真先生が教えたのね。いいわよ」
ぼくは対話ボランティアとして中に入り込むことにした。
通常であれば、ボランティア団体に所属し事前研修を受けて、素性と目的を説明し、受付で名前を書いて、入所者とのすり合わせが行われてやっと面会ができる。
だが『わたつみの坊ちゃん』――いわば身内たるぼくなら、事実上フリーパスで出入り可能となっている。
患者やボランティアに対する説明も不自然なほど少なかった。
彼女は希子さんの簡単なプロフィールが書かれた紙を取り出して、付け爪だらけの手を三本立てる。
看護婦にはとても似つかわしくない爪だと思った。
「決まりは三つ。一つ、希子ちゃんと必要以上に面会することは禁止、ナースコールが鳴ったら必ず退出するように。二つ、希子ちゃんを他の患者やナースに接触させることは禁止。三つ、地下で起きたことは公言禁止。……以上よ」
会うな、会わせるな、話を広めるな?
ばかばかしい。ボランティア登録はザルなのに、決まりだけは厳しいときた。
「地下での会話、話しちゃいけないんですか?」
「安全保護のためよ。くれぐれも粗相のないようにね」
「……わかりました」
やけにゆっくりと囁かれる。
地下病棟は異様に静かだった。
遠くから看護婦の疲れた咳が聞こえてくるばかりで、患者の姿はほぼ見えない。
自然光の入らない暗い廊下。
クリーム色の壁と薄緑のリノリウムの床が四メートル程続いている。
冷たく湿っぽい空気で満たされ、病床につきものの倦んだ雰囲気を纏っていた。
窓には鉄格子がはめこんであり、監視カメラの赤い光が点滅し続けている。
そのレンズが自分を追っている気さえした。
サナトリウムというよりは監獄や金庫に近い。
金の延べ棒や宝石が置いてあるわけでもないのに、なぜ?
案内された病室の名札をそっと盗み見る。
先日の彼女の本名は文島希子らしい。
病室の扉を開くと、ふわりと甘い蓮の匂いがした。
廊下とは打って変わって明るい雰囲気だ。
白い壁紙で囲まれた部屋の中に、清潔なシーツに包まれた医療用ベッド、サイドテーブルが一つずつ。
そしてベッドにもたれて座る少女こそ、部屋の主・希子さんだった。
「ずっと待っていたの。うれしいわ」
先日見かけたネグリジェワンピースではなく、和服に似た病院着に身を包んでいる。
彼女はぼくの表情を窺い、薄い唇を丸めて静かに微笑む。
「わたし、文島希子。よろしくね」
「……谷崎真理。中学三年生」
ぼくは本名からして異質だ。
よそ者のインテリ階層が選んだ、思想じみた硬い響きの単語は、田舎の漁村では全く馴染まない。
祝賀会の夜、彼女に名前を呼ばれたことを思い出した。
居心地の悪さを誤魔化すように、鞄から小さな包みを取り出す。
「祝賀会の夜、きみがくれたハンカチなんだけど。あの後汚してしまったから、新しいのを買ってきたんだ」
自分の声が思ったより強張っていた。
立場上徹底して避けてきた他者との情的な接触が、強制的に始まっている。
「いいのよ。あれは、あなたに貸してあげるために持ってたんだから。それより、どんなハンカチを選んでくれたのか、楽しみだわ」
病室を見回すと、壁には画用紙が何枚も貼られていた。
色鉛筆の力ない筆致で、子どもたちを抱きしめるお母さんが描かれている。
壁一面には児童用のおもちゃがずらり。
可愛いお人形とドールハウス、千羽鶴、『赤毛のアン』『若草物語』など子供向けの文庫本が所狭しと並べられていた。
しかしよく見ると、壁際に置かれたドールハウスは壊れていた。
メルヘンな紅色の屋根は半分ちぎれて、中がむき出しになっている。
ベッド脇のサイドテーブルには古い写真立て。
両親と、兄らしき青年たち、幼い希子さんが写っている。
背景は、鄙びた硝子島とは似ても似つかない大豪邸の庭で、大型犬が傅いていた。
写真立ての硝子に積もった薄い埃を指でなぞりながら、ふと息を詰めた。
「……写真に写っているのは、きみの家族か?」
「そうよ。周二お兄ちゃん。わたしの願いを何でも叶えてくれる優しいお兄ちゃんだったわ」
「だった。なら、今は?」
「そうね」
言いながら、さりげなく指を組む希子さん。
「……みんな、忙しいから」
希子さんはぎこちなく笑うが、大きな目はどこか潤んでいる。
「希子ね、小さい頃から体が弱くて……。パパが、わたしをわたつみに送るって決めたのよ。パパもママも、お兄ちゃんたちも、とっても忙しいからお見舞いに来れないの」
そこでぼくは、病室に家族からの手紙が一つも見当たらないことに気づいた。
「ボランティア登録の時、書類で見たよ。きみの誕生日は四月だっただろう? 名古屋の家族から連絡はあったのか?」
「誕生日は……何もなかったけれど、忙しいからよ」
希子さんの小さな手指がシーツを弄んでいる。
自分は家族に見捨てられていないと言い聞かせる、必死の強がりのように聞こえてしまう。
「わたし、ずっと入院しているから……雄真先生の赤ちゃんがどんな子か、島でどんな目にあっているか、噂で知っていたの。だから祝賀会の夜、あなたの視線の奥底に、痛みと悲しみがあること、気づいたわ」
息が詰まる。
「皆があなたにしてきたこと、信じられない。ひどいわ。まるで生贄じゃない」
希子さんの声がかすかに揺らぐ。
彼女は涙ぐみながら震えていた。
「あなたって、ずっと一人で頑張ってきたのね。わたしならきっと耐えられない。何もできなくて、ごめんなさい」
「きみが……謝ることじゃないよ」
それ以上何も言えなかった。
言葉を選べず、沈黙に終始してしまう。
殺しそこねた感情が鮮烈に痛んだ。
生まれた時から当たり前にあった個人的な苦しみを、希子さんはやさしくすくい上げて、柔らかい言葉に変える。
「けれど真理、人間は多面体なんだわ。あなたは雄真先生とは違うもの」
希子さんの小さな手が、ぼくの手を握りしめる。
視線を落としたまま、小さな指の柔らかさを感じていた。
冷たい掌と触れ合うことが不思議と嫌ではない。
ぼくはゆっくりと手をほどき、ベッドのそばにスツールを用意して座る。
逡巡しつつ、口を開いた。
「希子さん。きみの友達になるよ。対話ボランティアに登録したから、いつでも来られる」
「ありがとう。うれしいわ」
希子さんははにかんで俯いた。
それから一瞬、言葉を選ぶように目を伏せて、
「……わたしね。小学校に通っていた頃、将来の夢の作文に『お母さん』って書いたら、男の子に『子どもみたい』って皆の前で笑いものにされたの。それ以来、男の子も友達作りも怖くて苦手」
そんな風に揶揄う男の子がいたのか。
小学生らしいといえば、らしい。
それから彼女はゆっくりと顔を上げて、間を空けてから微笑んだ。
「だから、こんなに自然に話せた子はあなたが初めてよ。真理。わたしたち、親友になれるわ」
「それなら、よかった」
希子さんはそっと目を伏せて、やがて満足そうに笑った。
まるで小さな花の蕾が緩やかに開くようだった。
細い指が掛け布団をわずかに握りしめている。
「ところで、きみが祝賀会の夜に言っていた『叶えたい夢』って何なんだ?」
「まだ全部は教えられないけれど……そうね。真理、顔を近づけて、耳を貸して」
「どうかしたのか?」
どういう意図なのか訝しみながらも、言われるまましゃがみこみ、ベッドへ身を乗り出す。
すると、小さな手がぼくの耳を両手で囲って、ひそひそと囁かれた。
「あのね、貝殻を拾ってきて欲しいの!」
「……貝殻? どうして?」
「昔、パパのクルーザーに乗って遊んだの。さざ波の音を思い返すと、家族や友達がまだそばにいてくれている気がするのよ」
耳朶に吐息がかかってくすぐったい。
希子さんは身を離して、そして少し恥ずかしそうに身をすくめて目を伏せた。
「わたしね、死ぬ前に一度でいいから、また海を見てみたい」
「……硝子島の海なんて汚いだけだよ」
「それでもいいの」
吊り目がちの瞳が細められる。
現実の硝子島は荒涼とした日本海に囲まれていて、彼女の思い出の中にある穏やかな太平洋とは違うはずだ。
けれどきっと、彼女にとっての海や貝殻は、過去の幸せな記憶をなぞるための象徴なんだろう。
『お盆になると、死者が水辺に現れて引き込んでくる』という民間伝承をふと思い出した。
今日はお見舞いだけにして帰ると伝えると、希子さんは寂しそうに微笑んだ。
「また遊びに来て頂戴ね」
頷きだけを返し、わたつみを後にした。
会話の余韻に浸るうち、祝賀会の夜希子さんを疑った自分が後ろめたくなってしまった。
種明かししてみれば何てことはない。
希子さんは院内の噂話でぼくの素性を知っていただけ、余命わずかの少女が最期に海を見たいと願っていただけ。
純粋な彼女を守りたい。
地下病棟でささやかな夢を見る希子さんを、異常な島の生贄にしてなるものか。
お読みいただきありがとうございます。
気に入っていただけたら、応援いただけると感激です!




