蓮の刺繍
上階から、母が夕食の片付けをする音が小さく聞こえていた。
低温管理された剖検室で死体を解剖する。蛍光灯がちかちかとちらつき、ぼくの影が揺れる。地下の換気扇から生ぬるい風が吹き込んできていた。
夕食後になるといつもの『解剖実習』が始まる。薬品瓶のガラスが冷たく汗をかいており、ホルマリンのようなツンとした臭いが鼻をついた。
解剖を始める前、冷蔵庫のタグにわたつみで出会った子供――希子さんの名がないか確認してしまう。立ったまま見上げていると雄真に一喝された。
「俺の許可なく触るな」
「……はい。申し訳ありません」
今日の遺体は若い女性だった。死因は多臓器不全。解剖台に広がる長い髪も、目を閉じたまつげの角度も、冷たく乾いた生気のない唇も、妙に艶やかで美しかった。蛍光灯の点滅が、のっぺりした肌に不規則な影を落とす。
希子さんがもう少し成長したらこんな感じだろうか? ほつれた髪をほどきながら、他愛もない妄想に逃げ込んでしまう。
メスを握って切開するたびに鈍い音が響く。死体の冷たい皮膚がゴムのように引きつり、肉の感触が指先に残った。脂肪の層がナイフにまとわりついて絡まり、切り口が鈍くなる。内臓を開くと、胃の内容物の腐敗臭が混じる。死臭とホルマリンのツンとくる匂いが漂う。
「軟部組織の切開だ」
父の命令がぼくを操る。
血の匂い、臓器を切開したときの独特な臭気、腐敗の進み具合で異なる死臭の種類。死後硬直が解けたあとの皮膚は生ぬるい柔らかさを持っている。メスを入れるたびに脂肪が滑る、思ったより硬い……。
ふと、ダビドの彫りの深い横顔を思い出した。無骨ながら真摯な表情、自転車を器用に直していた手つき。彼なら死体も丁寧に扱うだろうか。
……いや、何を考えている? 普通の中学生は日常的に死体を解剖したりしない。死臭に耐えられないはずだ。
ぼんやりとそんなことを考えていたら、つい加減を誤ってメスを切り込みすぎてしまった。血が飛び散って、頬に冷たい滴が付着する。
「どうした。いつもより手つきが粗いぞ。もっと真面目にやれ」
父が野太い声で釘を刺す。
そう言われるほどに人間としての痕跡に目を留めてしまう。使い込まれた指輪が死体の薬指に食い込んでいた。誰かに愛されていたのか、美保さんの祖母のように、この女性にも家族がいたのかな――。
不吉な幻影が脳裏に過ぎる。暗い剖検室の中で、白手袋をつけた父がワーグナーを流している。解剖台の上に寝そべるのは、希子さんの白い裸体。丸みのない華奢な手足、烏の濡羽色をした髪、閉じられた瞳。父は徐に、平坦な臍にメスを入れて切り開く……。
はっと我に返った。眼鏡の奥の瞳が強張る。
これまでぼくは、死体を物として切り刻む解剖実習に何の疑問も抱いていなかったはずだ。それなのにメスを持つ手が汗で滑って震え、上手く操縦できない。消毒液の匂いが鼻にこびりついて耐えられなくなった。小学生の時から何度も解剖を経験しているはずなのに、なぜ今になって困惑が湧くのか分からない。
父はぼくの躊躇を見逃さなかった。
「さっきも手を止めたな。この程度の簡単な解剖もできないのか?」
「……申し訳ありません」
「しっかりしろ。お前はまだ甘えてる」
もしこの遺体が希子さんなら? そう考えた途端、まともに切り込みを入れられなくなってしまった。立ちっぱなしの膝ががくがくと震え、父に叱られても動けない。
「真理。何をやっている?」
解剖室の蛍光灯が点滅して、死体の顔に影が落ちていた。骨の浮き出た手の中でメスが滑り落ちそうになり、冷たい汗が滲む。
ぼくは小さく呟いた。
「……嫌だ……」
「何だと? もう一度言ってみろ」
目を閉じて息を整える。
「嫌だって言ってるんだよ! こんな解剖、いつまで続けるんだ。誰が考えたって犯罪じゃないか」
言い切った後、静寂が訪れた。
父が何も反応しないことがかえって気味悪く、冷や汗が滲む。処刑台の上の不気味な沈黙。何が起こる? 何をされる? 彼がどのタイミングで怒鳴るか、どこに拳を振り下ろすか、どれだけ折檻が続くかに神経をすり減らしてしまう。
父は拳を振り上げて、勢いよく殴りつけてきた。空手仕込みの鋭い拳が腹に当たると、意識が一瞬飛んだ。耳の中で高音が鳴り続ける。
「真理。お前は体が弱いんだから、人一倍真面目に勉強して根性をつけないと駄目だ! お前みたいなひ弱で生意気な奴は、社会に出たら通用しない」
床に倒れ込んでうめくぼくを、父が見下ろす。倒れた拍子に口の中を噛んでしまったのか、血の味が広がり、歯が痛い。
「感情なんていらん。俺たちにとって死体はただの物だ。半開きの目が気になるなら潰せ!」
言うなり彼はメスを振り翳し、死体の眼球を乱雑に潰した。ぶちゅっ、ぐにゃり、ぐちゃりと生々しい音が響く。彼は潰した眼球を無造作にトレイに放ってみせた。目の前で破壊して情を削ぎ落とすという、冷酷な躾。
ぼくが思わず顔を逸らすと、彼は吐き捨てる。
「次はお前がこうなる番だ。腕を出してみろ!」
「……は、い」
逆らえない。言われるままに立ち上がり、解剖台の上に腕を出す。すると、雄真は熱したメスを手にしてぼくの皮膚を薄く切り裂いてきた。
「ぎゃあああああっ!」
あつい。いたい。あつい。いたい。
皮膚が焼ける感覚と、神経が悲鳴を上げる鋭い痛み。激痛から逃れようと身を捩るとすかさず雄真が怒鳴る。
「これは躾だ。お前はまだ甘えてる!」
意味がわからない。こいつは、ぼくをどんな怪物に躾ようとしているんだ?
彼にとっては息子でさえ解剖対象なのだ。ぼくの苦痛なんて一切関心がないどころか、いっそ楽しんでいるようにも見える。
やっと雄真は気が済んだのか、メスを止めた。先程とは全く違う冷淡な口調で続ける。
「医科大学では、二年生から死体を教材として解剖実習を行う。お前もそのうち慣れる。まずは、さっき俺が切った傷口を自分で止血して縫合しろ」
痛くて痛くてたまらない。麻酔なしで、しかも右手だけで、自分の左腕の縫合なんてできるわけがなかった。
けれど、逆らったら更に痛めつけられ、運が悪ければ硝子島の闇の中に葬られるとも知っていた。例え、ぼくが実の息子であっても。
とにかく止血できるものを探して、咄嗟にポケットを探ったら、柔らかい布を探り当てた。藁にもすがる気持ちで布を引っ張り出してみると、それは希子さんがくれたハンカチだった。咄嗟に傷口に当てれば蓮の刺繍にじわりと赤が広がる。蓮の花は血を吸い取るためにそこにあったように見えた。泥の中から咲く、清らかな救いの花。
――ね、お友達になりましょうよ。
そのさまを見て涙が滲んできた。希子さんに会いたくてたまらなくなった。わたつみの冷えた廊下に行きたい。希子さんに縋りついて、涙してしまいたかった。
「今夜のお前は解剖助手には不適格だ。解剖は中止、俺一人でやる」
「……はい。申し訳ありません」
ぼくは縫合を終えて、痛む身体を無理に起こしてよろよろと立ち上がった。腫れ上がった傷に手を当てるまでに、ものすごく時間がかかった気がした。
リビングに戻ると、母がぽつりと佇んでいた。大きな物音を立てないよう気をつけながら、そっと氷を渡してくる。父に切り刻まれた傷口に当てると、冷たさが肌にしみた。
「痛かったね。けれど、雄真さんはあなたを強くするために頑張っているんだよ」
彼女はぼくの髪にそっと触れる。水仕事ばかりで皮膚のはりが失われた掌は、わずかに震えていた。
「お母さんが真理ちゃんを丈夫に産んであげられなくてごめんね。代わりたい。代わりたい、代わりたい、代わりたい、代わりたい……」
母はぼくのシャツの肩に縋りつき、細い指を食い込ませながら、呪文のように繰り返した。長袖ブラウスの合わせから、薄い体と真新しい青あざがのぞいていて、不意に目を逸らしてしまう。
止血とともに、頭が冷えていく。
なぜぼくは手を止めてしまったのか? 希子さんの解剖を想像してしまったからだ。
希子さんと出会い、ぼくが解剖してきた死体は、かつて魂のある人間だったと認識してしまった。人体がワーグナーの旋律とともにバラバラに切り開かれ、ゴミのように扱われるという、客観的な異常性。
硝子島では、献体の意思に関係なく、誰もが解剖台に乗る。父は希子さんの遺体も残酷に切り開くのだろう。地下室の冷蔵庫に小さな肉体が入り、父の白手袋が彼女を切り刻む未来を想像して、背筋が凍りついた。
血が滲む蓮の花を目にして、ぼくは唇を噛み締めた。
わたつみの地下病棟に行こう。
希子さんに会いに行こう。




