第9-3話「昔々」――完結
――七十年が、過ぎた。
分厚い石壁の内側で、炉の火が、揺れていた。
外は、闇だった。
命を、凍らせるような、吹雪が、壁の向こうで、鳴っている。
――石壁が、分厚い理由。
――外が、闇である理由。
――まだ、来るからだ。
老人は、炉のそばの、椅子に、背を、丸めて、座っていた。
膝に、毛布。
右手に、湯の入った、木の椀。
左腕は、肘から先が、金属だった。
古い。
継ぎ目に、灰が、詰まっている。
――封印を、解いた代償。
――そして、七十年、それで、殴り続けた跡。
その足元に、孫が、座っていた。
六歳だった。
「ねえ、おじいちゃん」
「なんだい」
「お話、聞かせて」
老人は、火を、見た。
しばらく、何も、言わなかった。
それから、いつもの一言を、言った。
「――昔々、この世界には、神さまがいたんだよ」
彼は、語った。
選ばれた、勇者の話を。
――選ばれて、いない。作られた。
東の果ての、魔王を、討ちに行った話を。
――討ちに、行っていない。囮だった。
そして、勝った話を。
――勝って、いない。
孫は、目を、輝かせて、聞いていた。
「――ねえ」
「なんだい」
「きのうは、剣が、二本だったよ」
老人は、笑った。
「そうだったかい」
「おじいちゃん、うそつき」
「……そうかもしれないな」
――わざと、一箇所ずつ、違えて、教える。
――正本を、作らないために。
――百年前、城壁の外で、一人の語り部が、そう、教えた。
孫は、それを、知らない。
やがて、孫が、眠った。
毛布を、かけてやった。
金属の手で。
老人は、火を、見ていた。
隣の椅子に、老女が、座っていた。
眠っていた。
白い髪。
小さな、体。
村の者は、彼女を、こう、呼ぶ。
――エマばあさん。
名を、訊いて、呼ぶ人。
この七十年、彼女は、死んだ者の名を、一人残らず、訊いてきた。
訊けない者は、番号で、呼んだ。
番号も、ない者は。
――「この人」と、呼んだ。
それでも、唱えた。
いつも、違う言葉で。
――正本は、存在しない。
老人は、火を、見ていた。
外で、風が、鳴っていた。
遠くで。
――金属の、駆動音が、した。
彼は、それを、聞いた。
そして、動かなかった。
――今夜は、来ない。
――村の人数を、数えてある。
――あと、三人、余裕が、ある。
彼は、湯を、飲んだ。
冷めていた。
それから、眠っている老女のほうを、向いた。
そして。
誰にも、聞こえない声で、言った。
「――……菊理」
返事は、なかった。
彼女は、もう、眠っている。
――七十年。
――彼だけが、その名を、呼んだ。
――そして、誰も、それを、聞いていない。
――孫は、寝たふりを、していた。
意味は、わからない。
おじいちゃんが。
おばあちゃんを。
――知らない名前で、呼んだ。
それだけを、憶えた。
――書かれない。
――記録されない。
――誰も、意味を、知らない。
――それでも、次の一人に、届く。
百十七年、白山が、やってきたことを。
――最後の一夜が、そのまま、反復した。
系譜は、終わった。
――手続きだけが、まだ、生きている。
炉の中で、薪が、崩れた。
火の粉が、上がった。
老人は、それを、見ていた。
――彼は、人類を、滅ぼしたと、信じている。
――七十年、そう、信じてきた。
――そして、毎日、千五百、作っている。
膝の上で、孫が、寝返りを、打った。
――彼は、間違っている。
――孫が、いる時点で。
外で、風が、鳴っていた。
そして、遠くで。
――また、駆動音が、した。
少年は、目を、開けた。
天井を、見ていた。
――いつか。
――あれを、倒しに行こう。
――そう、思った。
――そして、また、眠った。
> ――『語り継がれる第五の創世記』 第三部『機械仕掛けの神話』 完――




