第25話 ミオの花
接続準備完了。研究室の照明が落ち、アキは椅子に深く身を沈めた。
前回体験した「レイの一日」は、嵐のような喪失の記録だった。
今でも雨の匂いがすると、自分の胸の奥にまで知らない痛みが走る。人の人生を追体験し、何も変わらないわけがない。
「今回は、ミオです」 技術主任の声が響く。
アキは小さく息を吐いた。「……帰りたくなってきました」 「今さら?」「毎回それ言うの?」と、ユイの呆れた声が続く。そんな軽口に救われながら、アキは再び意識を過去へと手渡した。
------------------------------------------------------------------------------
信じることの痛み
光と風。目を開くと、そこは二百年以上前の古い商店街だった。まだ《AinoHana》が記号化される前の、不確かな時代。 アキは、いや、ミオは、小さな花屋の前に立っていた。
「また来たの?」と笑う店主のおばあさんに、ミオは「好きなんです」と満面の笑みで返す。
アキは驚いた。教科書に記されたミオは、常に「慈悲と対話の人」と称えられていたが、体験する彼女の笑顔は、記録以上に眩しく、曇りがない。
しかし、その日の午後に起きた出来事が、その光を一変させた。 ミオは裏切られた。それも、驚くほど「普通」の、ありふれた裏切りだった。信じていた仲間に約束を破られ、陰口を叩かれ、責任を押し付けられる。特別な事件ではない。だが、小さいからこそ、その針のような痛みは心の深部までゆっくりと染み込んでいく。
その夜、ミオは一人、音を殺して泣いていた。 誰もいない部屋で膝を抱え、震える肩。教科書のミオはいつも笑っていたはずだ。だが、現実は違った。彼女は何度も傷つき、何度も裏切られ、そのたびにボロボロになりながら泣いていたのだ。
「強さ」としての優しさ
翌朝、アキは混乱した。 ミオはいつも通り顔を洗い、歪な花を描き、外へ出たからだ。なぜ、あんな目に遭いながら再び人を信じられるのか。期待しなければいい、距離を置けばいい。それが身を守る術だ。しかし、彼女は公園で子どもに微笑みかけ、困っている人を助けることをやめない。
夕暮れ時、ある老人がミオに尋ねた。「人が好きなんだね」。 ミオは少し考え、静かに首を振った。 「好きかどうかは分かりません。……ただ、信じたいんです。私だって、誰かに信じてもらって生きてきたから」
その瞬間、アキの中で何かが解けた。 信じるとは、相手が裏切らないと確信することではない。相手が正しいと証明することでもない。
信じるとは、傷つく可能性を十分に知りながら、それでも心を閉じないことなのだ。
------------------------------------------------------------------------------
接続終了。
研究室の白い天井が、涙で滲んで見える。アキは目を開け、ユイが差し出したティッシュを受け取った。
「レイより、ひどかった?」 ユイの問いに、アキはゆっくりと首を振った。 「……違う。ただ、分かったんだ。優しさって、強さだったんだな」
窓の外、二六四四年の夜空には無数の《AinoHana》が漂っている。 ミオなら、この記号化された世界を見て何と言うだろう。 誰かに褒められるためではなく、ただ咲く。そして信じる。いつかその根が、見えない場所で誰かと繋がることを。
アキは窓の外を見つめ続けた。次に待っているのは、人類が長く見ないふりをしてきた深い闇。イオの人生が、静かに彼を待っていた。




