7.夏休み
蝉の声が遠くで鳴いている。
じりじりと照りつける太陽がアスファルトを焦がし、少し立っているだけで額に汗がにじむような、真夏の日。
ナツは駅の改札口の前に立ち、何度もスマホを見ては時刻を確認した。
――あと五分。もうすぐ来る。
胸の奥が高鳴っている。
こんなに緊張するなんて、初めてかもしれない。
自分の家に誰かを泊めるなんてことも初めてだけど、それ以上に「雪が、自分に会いに来てくれる」という現実がまだ信じられなかった。
電車の到着を知らせるアナウンスが流れると、ナツはぐっと背筋を伸ばした。
ほどなくして、改札の向こうから見慣れた姿が現れる。
「ナツ!」
ぱっと顔を輝かせて駆け寄ってくる彼女――雪は、やっぱり周囲とはまるで違って見えた。長い脚、スラリとした腕、透き通るように白い肌が、夏の陽光を反射してまぶしい。
まるで雑誌の中から飛び出してきたような美しさだ。その彼女が、自分に向かって笑っている。手を振ってくれる。
「雪さん……!」
思わず口に出してしまう。
「もう、“雪”でいいって言ってるのに」
いたずらっぽく笑いながら、雪はナツのすぐ目の前までやって来た。
香水ではない、柔らかな石鹸のような香りがふわりと香る。
「だって……雪さんは私にとって、あこがれですから。すごく綺麗で、その……」
ナツがもごもごと言葉を探していると、雪がぐっと顔を近づけ、耳元でささやく。
「恋人だよ?」
耳朶をくすぐるような甘い声。
その一言に、ナツの頬が一気に熱くなる。
とっさに顔をそらしたけれど、雪はくすっと笑うだけだった。
「もう、からかわないでください……」
「からかってないよ。ほんとに、赤くなったナツ、可愛い」
まっすぐに見つめられて、ナツは何も言えなくなった。
「……と、とりあえず、行きましょう。うち、こっちです」
照れ隠しのように歩き出すナツの手を、雪がそっと握った。
思わずかわそうとしたその手を、雪はぎゅっと握り返した。
「だめ。離さないよ」
「ゆ、雪さん……誰かに見られたら……」
「大丈夫。ここなら平気。東京じゃないし、誰も私たちのことなんて気にしないよ。それより早く、ナツの家、行こう?」
雪の笑顔が、夏の日差し以上にまぶしくて――ナツの胸はどくんと跳ねた。
家に着くと、門の前まで出てきたナツの両親が、にこやかな笑顔で出迎えてくれた。
父はタオルで額の汗をぬぐいながら、雪に向かって穏やかな声で言った。
「いらっしゃい、遠いところをようこそ。暑かったでしょう」
「初めまして、雪と言います」
雪は姿勢を正し、丁寧にお辞儀をした。その所作は落ち着いていて品があり、ナツの母も思わず目を細めた。
「まぁ、なんて礼儀正しいの。ナツと仲良くしてくれて、本当にありがとうね」
玄関先で母が笑顔を向ける。その声には、どこかほっとした安堵の色がにじんでいた。
「この子、小さいころから引っ込み思案で……友達も少なかったの。だから、こんな素敵なお友達ができて、本当に嬉しいんです」
そう言いながら、母はナツの肩にそっと手を置いた。ナツは恥ずかしそうにうつむき、頬を赤らめながら「もう、お母さん……」と小さく呟いた。
「そんな……私の方こそ、ナツさんにはたくさん助けられてます」
雪はそう言って、優しく笑った。謙遜するその言葉に、母はさらにうんうんと頷く。
「まあまあ、立ち話もなんだし、暑い中大変だったでしょ。さあ、中に入ってゆっくりしていってね」
母が玄関の戸を開け、二人を中へと招き入れた。
雪がナツの家の敷居を初めてまたいだその瞬間――玄関先に漂う懐かしい石けんの匂いや、木の床のきしむ音、飾られた家族写真が、どこか温かい時間の流れを感じさせていた。
ナツはほんの少し、緊張した面持ちで雪の腕を引く。
「じゃあ、こっちです」
そう言って、二人は階段をのぼり、ナツの部屋へと向かった。
「へえ……ここがナツの部屋か」
雪は部屋をぐるりと見渡してから、微笑んだ。
「可愛い部屋。ナツらしいね」
「子供っぽくて、恥ずかしいです……」
本棚に目をやった雪が、すっと一冊の写真集を取り出す。
「あっ、水月さんの写真集だ。これ、私も持ってる」
「やっぱり、雪さんなら持ってると思いました」
二人でページをめくりながら、「この衣装可愛い」「この髪型、真似したい」なんて語り合う時間が、心地よかった。
「ナツ、このページの水月さん好きでしょ?」
「え、なんでわかるんですか?」
「目が輝いてたから」
ふいに顔を上げると、雪の顔がすぐそこにあった。距離が、近い。胸がどきん、と跳ねる。
「ナツ、すごく……かわいいね」
「えっ……そんな、わたし……」
「うそじゃないよ。もっと、可愛くしてあげたい」
そう言って、雪は鞄からポーチを取り出した。中には、色とりどりの化粧品。
「今日はね、ナツにプレゼントもあるの」
差し出された小箱の中には、きらきらと光る髪飾りが入っていた。
「つきあって、初めてのプレゼント」
ナツは思わず、両手でそれを包んだ。
「……うれしいです。大事にします」
「じゃあ、これつけて、おめかししよ」
雪はナツを椅子に座らせ、丁寧にメイクを始めた。指先が頬をなぞるたび、心臓が跳ねる。髪を巻き、口紅を引き、頬に軽くチークをのせて――鏡の中に現れたのは、見違えるような自分だった。
「……誰これ」
「ナツだよ。世界で一番、可愛いナツ」
そう言って雪が微笑む。その視線の熱に、ナツはもう何も言えなかった。
「さあ、でかけよ」
「……はい!」
玄関を出た瞬間、空があまりにも青くて、ナツは目を細めた。
雪と過ごす、この夏の一日が、きっと一生忘れられない宝物になる――そんな予感が、胸いっぱいに広がっていた。