49.さよならと言わない
その日、ナツは退職届を出そうとしていた。
静かに、確かな決意を胸に秘めて。
年内で辞める。そう決めた。
キャビネットの引き出しに入れていた封筒を手に取り、人事担当者のもとへと向かった。
わずかに汗ばんだ手のひらが、書類の隅を湿らせている。
けれど、もう迷いはなかった。
もう一度自分の人生を始めるために。
担当者に書類を手渡し、静かに一礼して廊下へ出たときだった。
「ナツ先輩!」
呼びかけられて振り返ると、後輩のなみが小走りで近づいてきた。
「ああ、なみちゃん。どうしたの?」
「久しぶりに…一緒にご飯食べませんか?」
「うん、いいよ」
自然な笑みがこぼれる。
どこか救われたような気持ちで、ナツはうなずいた。
なみは、5つ下。細身で長い髪を一つに束ねた、落ち着いた印象の子だった。
入社してすぐの頃、ナツの隣の席に座っていた時期があった。
恋愛や結婚の話題になると、なみは時折、言葉を濁しながらも打ち明けてくれた。
おそらく、彼女は女の子が好きだ。
ナツは、気づいていた。
けれど、それを言葉にしたことはなかった。
聞く必要はない。
過去の自分を見ているような気持ちで、ただ、目の前にいる彼女の気持ちを尊重したかった。
いつもの小さな定食屋に入り、窓際の席に腰を下ろす。
午後の日差しが、湯気の立つお茶をほのかに照らしていた。
「最近、どうなの?」
ナツがそう問いかけると、なみは少し目を細めて、湯飲みに口をつけた。
「変わらないですね。妹が二人いるから、子供は欲しいなって思うことあるんですけど、結婚する想像つかなくて」
「そっかぁ。まだ20代だし、焦る必要ないんじゃない?」
「んー、そうなんですけどね…」
「ご両親が離婚してるから、結婚感がわからないって前言ってたよね」
「そうなんですよね…」
なみは、箸を置きながら答えた。
その目が、どこか遠くを見ているようで、ナツは少しだけ、言葉を選び直す。
「ねぇ、なみちゃんってさ。女の子のこと好きでしょ?」
「え…」
突然の問いに、なみの瞳が大きく揺れる。
「わかってたよ?なんとなく」
「…すごい、さすがナツ先輩」
「隠しきれてなかったよ?ふふ」
「もう…ナツ先輩、辞めても相談のってくださいね」
「もちろんだよ、なみちゃん。かわいい後輩だもん」
ふたりの間に、穏やかな笑みが流れる。
「ところで、ナツ先輩は結婚とか考えてないんですか?」
「考えてないけど…」
「けど?」
「母がね、お見合いしろって。仕事辞めるって決めてから頻繁に言ってくるようになって」
「わあーめんどくさそう」
「でしょ?30代になるとそういうの大変なんだから」
ナツが笑ってそう言った、ちょうどそのときだった。店内のテレビに、速報のテロップが流れる。
『速報:元Spring アイドル・水月さん 都内病院で急死』
ナツは一瞬、意味が理解できなかった。
「……うそ」
なみが小さくつぶやいた声が、耳に遠く響いた。
ナツの手から、箸がするりと滑り落ちた。
コツン、という音が床に響き、全身から力が抜ける。
画面には、水月の笑顔が映っていた。
10年以上前、ステージの上でまぶしく光る彼女の姿。何度も何度も見ていた姿だった。
胸の奥に、冷たいものが流れ込んでくる。
震える指で唇を覆い、ナツはテレビを見つめたまま、微動だにできなかった。
「ナツ先輩…?」
なみの声が、遠く感じた。
心臓が速く打ちすぎて、息が浅くなる。
あの最後のステージ、誕生会の日、笑ってくれた声。
全部が、突如として蘇ってきた。
だけどそれは、もう二度と会えない人の記憶になった。
「……ごめん、ちょっと外の空気吸ってくるね」
ナツは席を立ち、財布だけを手にして店を出た。
戸を開けた瞬間、目を閉じても、水月の笑顔が焼き付いて消えなかった。
「どうして…」
かすれた声が、自分の喉から漏れた。
涙が、止まらなかった。
ナツは顔を覆い、小さくうずくまるようにして、空を仰いだ。
雲ひとつない空が、やけに眩しく感じた。




