48.割れたグラスは戻らない
それ以来、ナツは時折 “BAR RIN” を訪れるようになった。
あやの明るさが気に入って常連になりつつあったけれど、めいと二人でもどこか心地よく感じられるようになり、ナツの新しい居場所ができ始めていた。
その夜も、カウンターにめいだけがいた。
「いらっしゃい、ナツちゃん。今日はあや、休みだよ」
「そうなんですね」
オーナーと軽く挨拶を交わし、ナツはいつものようにめいの隣に腰を下ろした。
あやがいない静かな店内には、少し低めのジャズが流れている。
「オレンジの、いつもの?」
「はい」
いつも通りのやりとり、だけど。
今夜は少し、空気が違っていた。
グラスが差し出されると、めいが口を開いた。
「ねえ、ナツちゃんって――あやのこと、好きなの?」
不意を突かれて、ナツは慌てて否定した。
「いえ!違います。ただ…妹みたいで」
「そっか」
そう言ってグラスを傾けるめいの横顔に、ナツは視線を落とす。
けれど次の言葉に、また胸がざわついた。
「ナツちゃんって、どんな人がタイプ?」
「えっと…優しい人ですかね」
「ふうん」
めいはいたずらっぽく微笑んだ。
「じゃあ、ナツちゃんってどっち?」
「ど、どっちって……」
その問いに顔を赤らめながらも、「相手によります」と答えたナツに、めいは満足そうに頷いた。
「いい答え」
次の瞬間、そっとナツの髪に手が伸びた。
「触っていい?」
小さく頷いたナツの髪を、めいが優しく指先で撫でる。
「綺麗な髪だね。…ナツちゃんって、ほんと可愛い」
「…ありがとうございます」
ぽんぽん、と子どもをあやすように優しく頭を撫でられ、ナツは少しだけ目を伏せた。
こんなふうに触れられたのは、いつぶりだったろう。
けれど、静かな空気の中で、めいはぽつりと言った。
「今はさ、恋愛するつもりはないんだ」
その声は少しだけ、遠くを見ていた。
「…恋人さんは?」
「こうしていても怒らないよ。もうすぐ別れるから。時間の問題。」
「そうなんですか…めいさん、綺麗だから。すぐ恋人できそう」
「それはナツちゃんもじゃない?ねぇ、誰かと一晩だけとか、したことないの?」
「ないです。私は…恋人がほしいので」
きっぱりとしたナツの言葉に、めいは少しだけ口角を下げた。
「身体からの付き合いって人も、この世界には多いけどね」
その時、ボーイッシュな女性ふたりが入ってきた。
カウンターに座り、ナツの隣で、明らかに酔った口調で絡んできた。
「ねえお姉さん、飲もうよ、もっといい店も知ってるし――」
ナツが困惑していると、めいがすっと立ち上がり、彼女の手を取った。
「ナツちゃん、出よ。ちょっと空気悪い」
「え、でも――」
「大丈夫。行こ」
ナツはめいに導かれるまま店を出た。
夜風が少し冷たい。
けれど、その手のぬくもりに、ナツは雪の面影を重ねてしまっていた。
(…めいさんって、どこか雪さんに似てる)
歩きながら、めいがふと「飲み直す?」と誘ってきた。
頷いたナツは、近くの隠れ家のようなバーに入った。
そこには、すでにひとりの女の子が座っていた。
パッと見ただけで分かる――小柄で透明感のある雰囲気がある人だった。
「あ、ひさしぶり。めいちゃん」
その子は、立ち上がってめいに近づくと、いきなり抱きついた。
「ちょっ…ミユダメだよ」
なぜかナツの心がきゅっと締め付けられる。
「紹介するね。ちょっと前から知り合いなのミユ」
めいは軽くそう言ったけれど、明らかにその距離感がおかしい。
ミユはめいの肩に手を置いたまま、指先でその鎖骨のあたりをなぞるように動かしていた。
めいはそれを嫌がる様子もなく、むしろくすぐったそうに笑って、ミユの指先を自分の指で絡め取る。
「ねえ、最近ぜんぜん会ってくれなかったじゃん。寂しかったよ?」
ミユが甘えるように言うと、めいは困ったように笑った。
「忙しかったの。夜遅いのが続いてて」
「でも今日は会ってくれた」
「…うん、偶然だけどね」
「それでもうれしい。めいちゃんの顔、近くで見れてよかった」
そう言いながら、ミユはめいの髪に手を伸ばし、そっと耳にかかった髪を直す。
まるで誰にも見られていない場所かのように、無防備で、親密だった。
ナツは隣の席で、それをただ見つめるしかなかった。
何を話すでもなく、ただ黙ってグラスを指で回していた。
「ねぇ、またあの時みたいに、めいちゃんの部屋に行ってもいい?」
ミユの声が、低く甘く響いた。
「……あの時って?」
めいがわざととぼけたように言うと、ミユはふふっと笑って、さらに距離を詰める。
そして――
「忘れたふり、ひどい」
そう言って、ためらいもなく、めいの唇に自分の唇を重ねた。
目の前で繰り広げられるそのキスは、軽く触れるようなものではなかった。
唇を離した後も、ミユはめいの首筋に顔を寄せて、鼻先をすり寄せるようにしていた。
「…ねぇ、今夜も…泊まっていい?」
「もう、酔ってるでしょ」
「うん。だから、めいちゃんのそばにいたいの」
そのやりとりが、あまりにも自然で。
何も知らない他人には、付き合っている恋人同士にしか見えなかった。
ナツの胸の奥に、知らぬ間に染み込んでいた熱が、ぐっと痛みに変わった。
それが嫉妬なのか、哀しみなのか、自分でも分からなかったけれど――
グラスに残った氷が、カランと小さな音を立てたとき、ナツは席を立った。
「ナツちゃん?」
めいが呼び止める声がしたけれど、振り返れなかった。
「……すみません、先に帰ります」
足元が少しふらついていたのは、酔いのせいだったのか、それとも心が揺れていたせいか。
わからないまま、ナツはバーの扉を押し、外の夜風を吸い込んだ。
その瞬間、目の奥が熱くなった。
やっぱり、自分は――
恋愛なんかできるほど、強くなってなんかいなかったのかと、ナツは心を揺らした。




