21.ナツの初恋
ーナツが中学1年生の頃。
グラウンドはちょうど太陽が沈みかけた放課後だった。
「ナツ!」
校舎の影から駆けてきたのは、陸上部のキャプテン——3年生のるいだった。
ボーイッシュで、どこまでも頼りがいがあった、るい。ジャージのポケットに手を突っ込んだまま、少し照れくさそうに笑っている。
「るい先輩、どうしたんですか? 明日、卒業式ですよ?」
「うん、だから。ナツに、卒業式の挨拶の練習つきあってほしくて」
「そんなことで私を、ここに?」
「だってさ……ここが、うちらの原点だから」
そう言って見渡すグラウンドには、誰もいなかった。日が傾き、校舎の窓が茜に染まっている。
「今日、ここでナツと会うのも、最後になるかもしれないし」
「……そっか」
ナツは、足元に咲く花のつぼみを見つめながら呟いた。
るいの横顔が、夕日に染まっていた。頬の輪郭がやさしく橙色に浮かぶ。
風が吹いて、二人の間をゆっくりとすり抜けた。
「来年は、絶対優勝してほしい。ナツなら、できると思う。来年は、ナツがチームを引っ張る番」
そう言って、るいはナツの頭をくしゃりと撫でた。その手のひらは大きくて、でもやさしくて——ナツは声が出なかった。
るいは、部活では誰よりも厳しかったけれど、ナツのことはいつも一番に気にかけてくれた。
「一緒に自主練しない?」入部して間もない頃、そう声をかけてくれたのも、るいだった。それから毎日のように、このグラウンドで二人きりの時間を過ごした。
――この場所が、私たちだけの特別になっていた。
るいがベンチに座り、卒業式の挨拶の練習を始める。その姿を、ナツは横目で見ていた。
やがて、空は群青に染まり始め、グラウンドに長く影が伸びたころ。
ふと、るいが言う。
「……グラウンド、最後に寝っ転がりたいな」
そう言って、土のうえに仰向けになった。
ナツも後に続く。
見上げた空には、夜の星がちらちらと瞬き始めていた。
しん、とした空気のなかに、二人の鼓動だけが響いていた。
そのときだった。
「「流れ星!」」
ふたりの声がぴたりと重なる。
空を横切った一筋の光は、ほんの一瞬だった。
「見た?」
「見ました!」
「なんにも願い事、言わなかったよ~」
「一瞬でしたもんね」
くすっと笑ったあと、るいがポツリと呟いた。
「……でもさ、もう願いごとは、自分で叶えるから」
「……どういうことですか?」
ナツが聞き返すと、るいはそっと体を起こした。そして、まっすぐナツを見つめた。
「高校はね、定時制に行くんだ。それで、手紙にも書いたけど——性転換手術を受ける。本当の自分になって、誰も知り合いのいないところで、人生をやり直すつもり」
ナツの心臓が、ぎゅっと縮まった。人生をやりなおした先にナツはいないと悟る。
「先輩……私……」
ナツの声がかすれる。
風がまた、ふたりのあいだを吹き抜ける。
「ん?」
るいが静かに問いかける。
「私、先輩のこと、ずっと……好きでした」
一瞬、るいの目が見開かれた。
けれど、その瞳はすぐにやさしく細められ、くしゃっと笑みがこぼれた。
「……ナツは、本当に可愛いね。でもさ、“好き”と“愛してる”は使い分けなきゃダメなんだよ」
その言葉はやさしかった。でも、ナツの胸の奥に、静かに重く沈んでいった。
――この気持ちは、恋として認めてももらえないの?
それは、告白のあとに訪れた、甘さではなく、切なさだった。
るいは立ち上がり、腕時計をちらりと見る。
「ごめん、すっかり遅くなった。送っていくよ」
自転車の後ろに乗ったナツは、るいの背中にそっと寄り添った。
夜道に揺れるペダルの音と、草むらの虫の声。
風を切るたびに、制服の裾がふわりと揺れた。
ナツはその背中に、そっと額をつける。
涙が、静かに一粒、頬を伝った




