20.雪の嘘の理由
浴室にお湯が揺れる音だけが響く。
ナツは少し俯きながら、ゆっくりと頷いた。
その瞳には迷いと覚悟が同居していて、じっと雪を見つめていた。
雪はその視線から逃げることなく、ほんの少しだけ目を伏せて、静かに口を開いた。
「……あのね。ナツちゃんには“ひとつ上”って言ってたけど……ほんとは、ふたつ年上なの」
ナツのまぶたがわずかに動いた。だがすぐに、ぽつりと答える。
「……知ってました。さっき、雪さんの保険証……見ちゃって」
雪の肩がかすかに揺れた。すぐに、悔いるように小さく唇をかんだ。
「そっか……隠してたこと、ごめん。話さなきゃいけなかったのに……」
ナツは視線を落としたまま、問いかけるように呟いた。
「なんで……嘘なんか…」
その声は責めるというより、裏切られたような、信じたかった気持ちを守ろうとするような、痛々しさを帯びていた。雪は小さく息を飲み、遠くを見つめるように語り始めた。
「私ね、Autumnに入る前は、一年間……フリーターだったの。大学では弁護士になるように言われて勉強もしてた。でも、どうしてもアイドルになりたくて……その夢が、どうしても捨てきれなくて。レッスンにのめり込むようになって……結局、試験には落ちた」
湯気の中、雪の声は過去をかき分けるように、ゆっくりと続いていった。
「父にはすごく叱られた。『そんな夢、恥だ』って言われて……その一年間は、家族の中でなかったことにされたの」
ナツは湯の中で両手を組んだまま、その話に耳を傾けていた。
「その頃、5つ年上の彼と付き合ってた。すごく真面目な人で……弁護士だった。将来の話もしてた。でも私は、彼よりも、夢を選んだの。どうしても、諦めきれなかった。だから……彼は私の手を離したの。そしたら彼の方から『夢を応援したいけれど、年齢的に待っていられない。もう一緒にいられない』って。さらに父の怒りをかうことになっちゃった」
その言葉に、ナツのまなざしがはっきりと揺れた。失恋ではなく、夢のために失ったもの。その重みが、雪の瞳の奥に宿っているのを、ナツは感じ取った。
「そんなときだったの。Autumnのオーディションを見つけたのは……」
雪は両手を膝の上で重ねながら、まっすぐ前を向いて話す。
「でも、年齢制限に引っかかってた。本当はダメな年齢。でも、正直に話して受けたの。落ちても仕方ないと思って。でも……社長が言ってくれたの。『その覚悟があるなら受け入れる』って。条件は、誰にもそのことは話さないっていう約束だった」
しばらく、沈黙が降りた。
ナツは膝を抱えるようにして、小さく肩を震わせていた。そして、少しだけ震える声で尋ねた。
「……もう、嘘は……ない?」
その問いは、雪にとって試されているようでもあった。
雪はそっと、ナツの手を取った。やわらかな湯に濡れたその手は、思ったよりも小さく、冷たかった。
「うん。ナツには……全部話した。こんなカッコ悪いこと、話すのが怖かったけど、でも……本当の私を、ちゃんと見てほしかったから」
ナツはその手を見下ろし、少しだけ指を動かして、ぎゅっと握り返した。
そっと視線を上げる。
「……雪さんは、男の人が好きなの?」
静かな問いだった。だが、その中には確かに揺れる感情が潜んでいた。
「……どうかな。自分でもよく分からない。これまで好きになった人は、男の人だったし、付き合ったのもそう。でも……女の子では、ナツが初めて」
そこで雪は、そっとナツを見つめた。まっすぐに、真剣に。
「でもね、不思議だった。ナツのことは……自然に受け入れられたの。気づいたら、惹かれてた。今、私が好きなのは……ナツ。それは間違いないよ」
その言葉に、ナツの喉が小さく鳴る。心臓が静かに、でも確かに高鳴った。
「ナツは……?初恋は男の人?女の人?」
ナツは目を伏せたまま、ぽつりと呟いた。
「私は……」
ふと、過去の記憶が蘇ってくる。
制服のリボン、部活後。夕日が落ちそうな誰もいないグラウンド。胸が苦しくなるほどに誰かを見つめていた、あの日のこと。
「……私の初恋は……中学生のときでした」
言葉を口にした瞬間、心の奥にしまっていた扉がそっと開いた。




