9.ファーストキス
家に戻った二人は、靴を脱ぐのもそこそこにナツの部屋へ向かった。
廊下の奥、南向きの窓から射し込む午後の陽は、白いレースのカーテン越しにやわらかく揺れ、静かなぬくもりで部屋を包んでいた。
ナツと雪は、隣り合ってソファに座った。
けれど、ぴったりと肩が触れ合う距離ではなく、微妙な空間が一つ分。
お互いの存在を意識しながらも、どこか踏み出し切れない、その距離が逆に息苦しい。
「これ、水月さんが出てるやつだね」
テレビに映るドラマの画面を指さし、ナツが言う。
「はい、雪さんまだ見てないかなって。一緒に見たくて……私も見ないで取っておきました」
そう答えた雪の声には、少しだけ照れが混じっていた。
画面の中では、主人公たちがすれ違いながらも少しずつ近づいていく。
恋の感情に気づきながらも、気づかないふりをしてしまう二人。演技とわかっていても、胸が締めつけられる。
「こんなふうに、ゆっくりした時間を過ごすの……本当に久しぶり」
雪がぽつりと呟いた。小さく息を吐くと、背中を伸ばしながら両手を空に向かってぐっと掲げる。その動きは猫のようにしなやかで、無防備だった。服の裾からは、白い肌がのぞいていた。
ナツは思わず目を逸らした。見てはいけないものを見てしまったような、そんな気がした。
「雪さん、忙しすぎるんですよ。もう少し、自分の体も大事にしてください」
ナツの声は、自然と少し硬くなった。心配のあまり出た言葉だったけれど、自分でも不器用だと感じるほどに、感情の出し方がうまくない。
雪は優しく笑った。
「ふふ、それはそうかもね……ナツが言うと、なんだか効き目がある気がする」
そして、ふわりと体を傾けてくる。次の瞬間には、雪の頭がナツの膝にそっと乗っていた。
「……っ!?」
心臓が跳ね上がる。耳まで赤くなるのが自分でもわかった。
ナツは、おそるおそる雪の髪に手を伸ばした。触れてはいけない気がして、それでもどうしても触れたくて——指先がさらさらとした髪の中に沈んでいく。
「……気持ちいい。ナツ、こうされると落ち着く」
雪の言葉に、ナツの胸がまたぎゅっと締めつけられた。
——こんなふうに、他の誰かにも甘えていたことがあるのだろうか。
想像してはいけないと頭では思っていても、心は勝手に嫉妬の形をとっていく。
「雪さん……あの……」
「ん?」
ナツを見上げる、澄んだ瞳。吸い込まれるようで、直視できずに目を逸らす。
「いえ……やっぱり、なんでもないです」
言いたいことはあった。でも、その一言で関係が変わってしまうのが怖かった。
「ナツ……」
雪がそっと体を起こし、優しくナツの肩に手を添えた。
手のひらがナツの頬に滑り、自然と顔を向かせられる。
視線が絡み合う。
「……キス、してもいい?」
ナツの唇が震える。けれど、逃げたくはなかった。だから、静かに頷く。
「目、閉じて」
低く甘い声が耳元をくすぐった。ナツはゆっくりと瞼を閉じる。
——ドクン、ドクン、心臓の音が、やけに大きく聞こえる。
そっと唇が触れた。
あたたかくて、やわらかくて、全身の力が一瞬抜けるような、そんな感覚。
優しさが、伝わってくる。
微かに香る口紅の匂いに包まれながら、ナツは息を飲み込んだ。
触れていただけの唇が、そっと離れる。
ナツは、ゆっくりと目を開けた。
雪は、少し恥ずかしそうに笑っていた。
「キス……初めてだった?」
「……はい」
「そっか。じゃあ、私がナツのファーストキス、もらっちゃったんだね」
冗談めかした口調。でも、その瞳は冗談ではなかった。
そして次の瞬間、ふわりと雪の身体がナツに寄りかかってきた。
押し倒されそうになるほどの距離。顔が近い。息がかかる。
また、あの試着室で見せたような眼差し。深くて、熱を孕んだ瞳。
「雪さん……あの……」
言いかけたその瞬間——
コンコン。
「ナツ? お茶持ってきたけど、入っていい?」
母親の声が扉越しに聞こえた。空気が、ピシリと張りつめる。
慌てて二人は体勢を整える。雪はさりげなく髪を直し、ナツは赤くなった顔をごまかすようにソファへ深く座り直した。
扉が開く。
「ありがとうございます、お母さま」
「なんだか色々買ってもらったみたいで、ありがとうございますね」
「いえ、私がナツさんをもっと可愛くしたかっただけなので」
「本当、いつも味気ない服しか買わないから……雪さんにおしゃれしてもらえてよかったです」
母親はにこにこと笑いながらお盆を置き、部屋を後にした。
ドアが閉まり、再び静寂が戻る。
ナツと雪は顔を見合わせ、思わず吹き出した。どちらともなく、緊張が解けて小さな笑いがこぼれた。
その笑顔のまま、雪がナツの髪をそっと撫でる。
細い指先が耳元に触れ、くすぐったいのに、離れてほしくないと思ってしまう。
そして、雪は囁いた。
「ねぇ、ナツ。もう一度、キスしよ?」
その声が、耳から心臓へ直通する。
ナツは、答えなかった。ただ、目を閉じた。
静かに、でも確かに——二人の唇が重なる。
もう、止まらない。憧れだけじゃない。
ナツの中に芽生えたこの想いは、静かに、でも確実に恋へと変わっていた。




