不器用な魔女(空木春陽について再)……2
サブタイトル少し変更しました
「帰ってよ」と言われた。
いつもはいろ葉と一緒に電車に乗って、扉付近で窓の外を眺めて、ビルの多さに感嘆を表し、いろ葉に「しーっ」と注意される。そして、最寄り駅につくと、その傍にある予備校のビルまで一緒に歩き、そこで別れるはずだった。
だけど「帰ってよ」と言われた。そして、あれ以来、それ以上言葉を発してくれなかった。きっと、ワカバが何かを失敗していたのだ。
「いろ葉、この字なんて読むの?」
「いろ葉、図書室って行ったことある?」
「いろ葉、お弁当は?」
「いろ葉……眠たいの?」
「いろ葉、あのね、先生のお話があるんだって。だから、ちょっと待ってて」
あれっ……。いろ葉帰っちゃった?
職員室から帰ってきたワカバの目に映った景色はなんだか色がない気がした。いくら級友たちが話しかけようと、いくら一緒に帰ろうと言われても、そんな言葉はワカバの耳に入ってこない。ワカバの瞳に映るのは、あるはずの荷物が一つもない机だけ。
その状態を認識したワカバは焦燥感に駆られていた。
「ごめんね、急ぐから」
慌てて必要な教科書をカバンに詰めて、ポケットの定期券を確かめるとそのまま教室を飛び出した。間に合うかもしれない。駅の階段を上って、改札口をくぐって、階段を下りると無情にも電車の扉は閉まってしまった。
「ま、いいか」とは思えなかった。
そう、危険はない。いろ葉にぶつかる妖魔の類いはとりあえず、ワカバに向かうようにしておいた。同じ制服を着て、同じ場所に座り、寄ってくる級友たちに潜むわずかな妖魔たちを潰す。いろ葉に取り込もうとするすべてを排除してきた。いろ葉が傷つかないように、ワカバなりに頑張ったのだ。
それなのに、いろ葉は『帰って』しまった。
人間一人に取り込まれている妖魔なら、今のいろ葉が一日そこらで消えてしまうことはない。それなのに、「ま、いいか」とは思えないし「帰ってよ」と言う言葉が頭の中で繰り返し再生される。
ワカバはうなだれながら、何を失敗したのかと考えていた。
例えば、ラルーならどうしていたのだろう? 例えば、キラならどうしていたのだろう?
時輪の森でもどこでも。
帰ることが出来るのならば、いろ葉なんて放って置いて帰ってもいい。きっとラルーは「あら、おかえりなさい」と言って迎えてくれるはずだし、「あなたは悪くない」と言ってくれるはずだから。
そして、ラルーはワカバの「でも……もし」に付き合ってくれる。
「でも、もし、あの時もっと違うことをしていたら」
「でも、もし、踏みとどまっていれば」
「でも、もし……」
そんな「でも、もし」のワカバに、ラルーはいつも「そうですわね」と答えてくれた。
「そうですわね。でも、もしあなたが行動していたとしても、踏みとどまったとしても、『今』と言う時間から未来を変えるのはそこで生きる人間にしかできませんわ」
ラルーの微笑みがワカバの脳裏に浮かび、それに続く言葉が続く。
「魔女は過去から今を変えるもの」
そんなことは分かっている。どれだけ魔女が今を変えたとしても、未来を選ぶのは人間なのだ。過去を変える者である魔女がここから起きる未来に干渉出来ないことくらい、痛いほど分かっていた。でも、ラルーのように上手くいかないのだ。
ラルーがワカバの行く末をたった一本の木の根で変えたのと違い、ワカバは世界の行く末を変えられない。いろ葉の未来の先にある、この世界がたどる未来。いろ葉が鍵の一つだということは分かっている。だけど、妖魔に呑まれないようにいろ葉を護っても、いろ葉に自信を持ってもらおうとしても、居場所を作ろうとしても上手くいかないのだ。
帰ってよ。
帰る場所なんてないのに。帰ったのはいろ葉の方じゃない。
こんなことになるのなら、いろ葉の心をちゃんと覗いておけばよかった。
足の向くまま歩いていたワカバはやっと視線を前へと向けた。すでに日は落ち、光が闇に溶け始めていた。なんとなく歩いてきたそこは、以前、妖魔を膨らませすぎた空木春陽の自宅へと向かった際に訪れたことのある公園だった。
ワカバは「はぁ」とひとつため息をこぼした。
公園の入り口には明朝体で『南小原西公園』という名称が書かれた石版が置いてあり、南なのか西なのかよく分からないという不思議な公園だった。そんなに大きな公園ではない。おおよそ四〇〇メートルくらいの円周の中に雲梯と太鼓橋、鉄棒にブランコが外周に設置されてあり、中央に滑り台がぽつんとある公園だった。
すでに小さな子どもたちは家に帰ってしまったのだろう。人っ子一人いない公園はひっそりと鳴りを潜めていた。そんな静けさの中水の跳ねる音だけが異質に聞こえてきていた。
蛇口から出てくる水に何かが当たって弾かれて、コンクリートに落ちていく音がする。そして、そこにはワカバの知っている血の臭いが僅かながら、含まれているようだった。
ワカバが入ってきた場所が入り口だとすれば、反対側におそらく出口という名称になるだろうそこには四角柱の柱から生える水道があったのを思い出した。入り口からはちょうど生け垣があって見えない場所になるのだが、誰かがそこで水を出して音を立てているのだろう。そして、おそらくワカバの接近に気付き、視線を上げたのだ。
彼が捻った蛇口がキュッという音を出すと、水の流れる音は止まった。
未だ暮れなずむ空はもしかしたら彼の執念と同じなのかもしれない。
しかし存外に、落ち行く陽は短命だ。
空木春陽がワカバを見つめた後、口に含んでいた水を吐き出した。ワカバは彼に用事はない。おそらく、彼もワカバに用事なんてないはずだ。しかし、何故か二人とも立ち去ろうとはしなかった。暮れなずんでいた空から全ての光が奪われる。それでも、まだ闇には襲われない。じーっという音を立てて、外灯がつき始める。
月が姿をはっきりと現し始める。
「また、邪魔しに来たのか?」
空木春陽がワカバに届くくらいの小声で言った。
「……」
ワカバは黙って彼を見ていた。彼からはもう紫煙の気配はない。ワカバには彼に何の用もなかった。だけど、彼から飛び出したはずの紫煙の気配がいろ葉の周りをうろつくようになっている。だけど、いろ葉はワカバを遠ざける。まだ手を出すことはないだろうが、時間の問題でもある。
「帰ってって言われたの」
ワカバの言葉に春陽は小首を傾げた。
「じゃあ、帰れよ」
「うん……」
ワカバは素直にその言葉を肯定した。しかし、帰る場所はないのだ。ワカバはこの世界を見届けて、自分の世界にしなければならないのだから。
だけど、この世界には妖魔がいた。既にこの世界を呪う者がいた。ワカバよりも少しだけ早くからこの世界を狙って、いろ葉を使おうとする者がいた。
帰ったとして、今のワカバには力押しで相手をやり込めるくらいしかない。
それではここから生まれる『時』と永遠にいたちごっこをするだけなのだ。
ならば、こっちの世界にワカバの世界を……と最後は思った。
「負けなければいいって言われたの」
ラルーに言われた言葉をワカバはポツンと落としていた。落とされたまま拾われなくてもいい言葉だった。しかし、春陽がその言葉を拾う。
「……勝たなきゃ意味ない」
春陽は言葉を拾って、紡いだ後、ひとり歩き出す。ワカバはその背中を見つめ、一歩遅れて歩き出した。勝たなくては意味がない。確かにそうなのだ。他のトーラに負けてしまえば世界が奪われる。だけど、ラルーは「負けなければいい」という言葉を使った。
どうしてだろう。
「空木春陽」
考えながら、ワカバは彼を呼ぶ。よく見れば、頬が腫れているし、唇も切れている。歩き方も変に弱々しい。
「怪我してるの?」
ワカバは答えない春陽の背中を眺めて、もう一度声を掛けた。
「負けちゃったの?」
なんとなくくたびれて、小さく見えるその背中を見つめて、ワカバは思うままに言葉を投げる。彼の中での『負け』がワカバの中の『負け』とは違うことは知っている。
空木春陽には負けてもまだ未来がある。
そんなことを知らない春陽は、はたと歩みを止めと同時に、踵を変えてワカバに攻め寄った。怒鳴り声が上げられたが、ワカバには聞き取れなかった。しかし、頸を締めに来るその両手は避けるべきものではないだろうと、ワカバは咄嗟に思った。わずかに踵が持ち上がる。苦しくないと言えば嘘になる。だけど、息はすぐに吐き出せた。春陽がそのままワカバを突き放したから。
尻餅をついたワカバはその春陽をしっかりと見上げていた。
ワカバのいた世界ではもっと恐ろしい衝撃が体中に走ったこともある。ラルーとのお手合わせにしても、もっと鬼気迫るものだった。魔女は忌み嫌われるもの。だからこそ強くあらねば、生きていけない。
そんなワカバはやっぱり真っ直ぐに彼を見つめた。しかし、ワカバは彼を見ていて、どこか寂しさを思い出す景色を脳裏に浮かべていた。
失われてしまった『時』をワカバは作ってきた。そして、失われた時を持っている。失いたくなかった時を取り戻そうとしている。
春陽はそのままワカバを光のない瞳で見下ろしていた。ワカバはその瞳の奥をじっと見つめる。春陽はまだ消えたわけでもない。ここで消えなければならない者でもない。だから、スカートの埃を払ったワカバは春陽に言葉をかけた。
「空木春陽、あなたの悩みなんてとってもちっぽけ」
そんなこと知らない春陽は苛立ちをそのままワカバにぶつけるためにもう一度腕を振り上げた。ただ、こういう相手に二度目は許してはいけない。ワカバにしても痛くないわけではないのだ。その拳がどこにぶつけられるのか、ワカバは未来を見つめた。
「大丈夫。まだ何も失われていないわ」
静かな物言いとは対照的な力強さで、春陽はその拳を受け止められていた。そして、春陽は急に気持ちが崩れるのを感じた。そのまま地面に突っ伏す。だけど、悔しさは不思議と出てこなかった。
春陽はワカバに簡単に捕らえられていたのだ。砂を噛んだ春陽は悔しさではなく氷のように冷え固まっていた何かが溶け出てしまわないように、ぐっと歯を食いしばっていた。
なんなんだよ……。なんで無性に腹の立つお前がオレの求めていた言葉を持ってるんだよ。
ダチと呼んでいた奴らに金蔓扱いされていた春陽。牙を剥けば、多勢に無勢。何もかも失ったのに。ワカバの言葉は、まだ取り返すことが出来るような力強さがあるように感じる。
それはまるで牙を剥いていた野良猫がふと空腹に負けてしまって、敵わないだろう相手に餌付けされてしまう、そんな風でもあった。運が良かったのは、その相手が『ワカバ』であったということだろう。そして、ワカバは微笑みもせずにただ言葉を落とした。ワカバは掴んだ春陽の手を離そうとしなかった。そして、春陽の力ではどうしようもないくらいにしっかりと後ろ手に掴まれていた。
「空木春陽であればいい。それだけで充分なんだから」
それが春陽にとっての最後の止めになってしまった。春陽は抵抗を止めた。勝てる気がしない。
「……」
右手を解放された春陽は、ようやくそんなに年端も変わらない女子に負けてしまったという居心地の悪さを感じ始めていた。しかし、言葉で絆され、力で負けた相手にどう対応すれば良いのか分からなかった。素直に感謝なのか、それとも、突っぱねて走り出すのがかっこいいのか。自分の中のかっこ良さがきっと通用しないくらいに相手の方が上だということしか分からない。本音を言えば大声を上げて泣きだしたい。むすっとしたまま黙っているということもなんとなく、子どもっぽい気がする。そんなことを考えているとさらにワカバの言葉が続いた。
「怪我、痛い? 治してあげようか?」
あぁ、よく分からない。痛いのは目の前のこの妙ちくりんな女だって同じはず。どうして、こっちの痛みなんて聞くのだろう。本当によく分からない。高二にもなってだ。大人にも負けないと思っていたのに。大人なんて糞食らえくらいに思っていたのに、世の大人ならどう対応するのだろうと考えた。
力なく足を投げ出した春陽は無言のまま頷いた。
その実、春陽の中は混沌とした葛藤で溢れていた。
なんだかんだ言ってもまだまだ思春期の男子である。頭の中は沸騰してしまいそうなくらいに沸き立って、何かを考えようとして恥ずかしさに帰着する。そして、それを否定しながら、顔のほてりに気付かれないように目を伏せた。どうしたらいいのか分からない。そんな春陽にワカバは付け入るような甘い言葉をかけてくる。
「あ、あとしばらく元友達からも護ってあげる。空木春陽はいろ葉のお友達らしいし」
突っぱねたい……。でも今逆らって良いのか? 鈴木いろ葉の話題には自分から触れたくない。特に彼女と仲が良いこの変な女の前では。じゃあ、どうすればいいのだろう。
何をしても負けてしまうのだろうし……。
かといって謝るのも癪だった。ワカバが放った言葉は春陽を充分に傷つけた。頸を締めにかかったことは悪いと思う。だけど、あいつだって悪いんだ。
この状況から、どうやったら逃れることが出来るのだろう……。この鬱陶しい妙ちくりんな女は、動きそうにないし。
春陽はそのことだけに頭をフル回転させていた。
これからどうしようと思ってたっけ……。家に帰るはずだった。それから、あぁ、思い出したぞ。
「……腹減ってない?」
春陽はなんとなく自分の空腹をワカバに準えて、そんなことを尋ねていた。




