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……ふっと目を覚ますと、歌姫は、豪奢な椅子に縛りつけられていた。
「目が醒めたかい?」
眼前では青年が下卑た笑みを浮かべていた。
(あぁ、そうだ。出されたお茶を飲んだら、意識が遠のいて)
足元に視線を落とす。いつの間にか着せられていたのは、純白の、さながらウェディングドレスだった。椅子に銅を縛りつけられ、両手は背もたれの後ろで白いリボンによって結ばれていた。
歌姫は肩を落とす。
(ありきたりの展開に乗っかってしまったことも情けないし、このドレスも……悪趣味)
一方で、青年は屈んで視線を合わせてくる。
「君にそっくりの人造人間をつくって、美しさを永遠に湛えたいんだ」
そして永遠の愛を誓うように、顎をくいっと持ち上げて、歌姫に口づけようとする。
がんっ! 歌姫は自由の利く右足で青年の股を蹴りあげた。
「うっ」
青年が飛び跳ねて悶絶する。かまわず、睨みつけた。震えているのを悟られる訳にはいかなかった。
「わたしに触れないで」
「どうしてそんなことを言うんだ……。こんなに君を愛していることを証明しようとしただけなのに」
今まで決して口にしようとしなかった言葉を、歌姫は放った。
「愛? 冗談言わないでください。ただの迷惑行為です」
涙目のまま青年は歌姫の両肩を掴んだ。
「いいのか? 君はぼくの手中にあるんだ。後悔することになるぞ」
今度は抵抗できなかった。触れ合う唇と唇。
(いや!)
歯で唇を噛んで拒絶。口のなかにじんわりと鉄の味が広がった。
「……まぁいい。じきに、私の方が正しいと理解できるさ! 大人しく私に従うんだ。この部屋にはすべてを揃えた。書物、デスク、バスタブ、ベッド。君が生活するのに、なにひとつ困らない。あぁ、そして、時々は歌を歌ってくれたらいいな」
そして青年は両腕のリボンを解いた。
「痛かったろう。今解いてやったから」
ぱかり。
リングボックスから、ルビーの指輪を取り出して、青年は歌姫の左薬指にはめる。
「あぁ、やっぱり、よく似合う。愛しているよ、私だけのジュイエ……」
恍惚の表情は、欲しいものを手に入れた純粋な子どものようだった。
(いや……言いなりになんか、なりたくない!)
歌姫は右手をドレスのなかでまさぐる。太ももに固い感触を確かめた。
ガーターベルトにそれとは分からないよう短刀がセットされていた。かちゃり、外す。
その切っ先を無言で青年に向けた。
刹那、青年の顔が絶望で曇る。
「ジュイエ……。私に逆らうのかい? こんなに君だけを愛しているのは私しかいないんだよ? 首都放水路で初めて出逢った日のことを覚えているかい。君のファーストコンサートだ。観客は私を含めて十人もいなかった。あのがらんどうの、空っぽの空間に、君の歌声が反響して……それはそれは美しい光景だった。釘付けになったよ」
歌姫の行動を制しようと、必死で説得する。
「あれから、私には君だけなんだ。君にすべてを捧げるために生きてきた。愛だけ、なんだ」
放水路を満たしたのは、河川から氾濫した水ではなく、感情だったのだ。
それは、愛、という。
名付けた瞬間に、この世のありとあらゆる事象を説明することができる感情。
しかし、それが事実だとしても。
「愛でさえ、その逆の感情がなければ認識することはできません。他のすべてがなくなれば、愛もまた、存在できない」
「私は違う。君だけの愛で成立している」
「そんなことは不可能です。あなたの狂信的な愛は、一時的には新しい世界を構築するかもしれない。だけど永遠に続きはしません」
一言一句に、力を込めて。精一杯の抵抗を。
「……賭けを、しましょう。あなたとわたし、どちらが正しいか」
「どうするんだ? その体勢から私を刺すとでも?」
「いいえ」
不敵な笑みを浮かべたのは青年ではなく歌姫だった。
自らの心臓目がけて刃を振り下ろそうと――したそのとき。
背後から。
何者かが歌姫の腕を掴んで上げた。
「お前はほんとうにばかだな。同じことを繰り返すつもりか」
狼の毛皮を被った、着流し姿の、青年が立っていた。
「……ミィさん」
それはあまりにも自動的だった。
歌姫は発した言葉によって、――ルゥに、なる。
「だ、誰だ、お前」
狼狽えているのは青年だった。
「どこから現れた! それに、その恰好、気味が悪い!」
エメリーはルゥの手から短刀を取ると床に投げ捨てた。
左手は腰に当て、右手は顎にやり、堂々としたしぐさで男の前に進み寄る。ルゥと男の間に立って、大げさに溜息を吐き出した。
「やれやれ。創造主がこんな弱々しい奴だったとは、がっかりだ」
「し、質問に答えろっ」
「ぼくにも分からないさ。ただひとつ言えるのは、こいつがぼくを呼んだんだ」
エメリーはルゥに背を向けたまま、親指でルゥを差した。
え。と、ルゥは小さく呟く。それは驚きから出たものだった。
――心なしか、その声が弾んでいるように感じたのだ。
「ぼくのことも、お前のことも、知りたいと。会いたいと。あれほどぼくに傷つけられたのに、学習能力のなさにはほとほと呆れる。しかたないから助けに来てやったのさ」
ルゥはうそぶくエメリーの背中をじっと見つめた。
(違う)
(この世界は、わたしが見ている夢なんだ)
空の欠片が降り積もり、融けた後の世界。世界の穴は広がりつづけた結果、元に戻ろうとしていた。
どの世界を選ぶかという問いかけを、歌姫から歌姫に投げかけているのだ。
(そこへあなたが応じてくれた……助けに来てくれた)
ルゥの胸中に熱がこみあげてくる。鼻をすすって。涙を零さないように。
(力が……湧いてくる)
世界に、彩りが戻ってくる。
「××さん。わたしは、あなたのものにはなりません」
ルゥは立ちあがり、エメリーの横に立つ。
「だけど次の世界では、きっと、あなたとも違うかたちで出逢います。そのときには、ゆっくりとお話しできるかもしれません」
その瞬間、決定的に道は分かれた。
何かが目に見えて変化したのではないけれど、確実に。
「……」
がくん。
男は膝から床に落ちた。
命の炎が燃え尽きてしまったかのように、頬は一瞬にしてこけ、視線は虚空を彷徨い、言葉にならない音声をぶつぶつと呟きつづけている。




