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できそこないの歌姫  作者: shinobu | 偲 凪生
第6話 玻璃の国
35/37

5


 ……ふっと目を覚ますと、歌姫は、豪奢な椅子に縛りつけられていた。

「目が醒めたかい?」

 眼前では青年が下卑た笑みを浮かべていた。

(あぁ、そうだ。出されたお茶を飲んだら、意識が遠のいて)

 足元に視線を落とす。いつの間にか着せられていたのは、純白の、さながらウェディングドレスだった。椅子に銅を縛りつけられ、両手は背もたれの後ろで白いリボンによって結ばれていた。

 歌姫は肩を落とす。

(ありきたりの展開に乗っかってしまったことも情けないし、このドレスも……悪趣味)

 一方で、青年は屈んで視線を合わせてくる。

「君にそっくりの人造人間をつくって、美しさを永遠に湛えたいんだ」

 そして永遠の愛を誓うように、顎をくいっと持ち上げて、歌姫に口づけようとする。

 がんっ! 歌姫は自由の利く右足で青年の股を蹴りあげた。

「うっ」

 青年が飛び跳ねて悶絶する。かまわず、睨みつけた。震えているのを悟られる訳にはいかなかった。

「わたしに触れないで」

「どうしてそんなことを言うんだ……。こんなに君を愛していることを証明しようとしただけなのに」

 今まで決して口にしようとしなかった言葉を、歌姫は放った。

「愛? 冗談言わないでください。ただの迷惑行為です」

 涙目のまま青年は歌姫の両肩を掴んだ。

「いいのか? 君はぼくの手中にあるんだ。後悔することになるぞ」

 今度は抵抗できなかった。触れ合う唇と唇。

(いや!)

 歯で唇を噛んで拒絶。口のなかにじんわりと鉄の味が広がった。

「……まぁいい。じきに、私の方が正しいと理解できるさ! 大人しく私に従うんだ。この部屋にはすべてを揃えた。書物、デスク、バスタブ、ベッド。君が生活するのに、なにひとつ困らない。あぁ、そして、時々は歌を歌ってくれたらいいな」

 そして青年は両腕のリボンを解いた。

「痛かったろう。今解いてやったから」

 ぱかり。

 リングボックスから、ルビーの指輪を取り出して、青年は歌姫の左薬指にはめる。

「あぁ、やっぱり、よく似合う。愛しているよ、私だけのジュイエ……」

 恍惚の表情は、欲しいものを手に入れた純粋な子どものようだった。

(いや……言いなりになんか、なりたくない!)

 歌姫は右手をドレスのなかでまさぐる。太ももに固い感触を確かめた。

 ガーターベルトにそれとは分からないよう短刀がセットされていた。かちゃり、外す。

 その切っ先を無言で青年に向けた。

 刹那、青年の顔が絶望で曇る。

「ジュイエ……。私に逆らうのかい? こんなに君だけを愛しているのは私しかいないんだよ? 首都放水路で初めて出逢った日のことを覚えているかい。君のファーストコンサートだ。観客は私を含めて十人もいなかった。あのがらんどうの、空っぽの空間に、君の歌声が反響して……それはそれは美しい光景だった。釘付けになったよ」

 歌姫の行動を制しようと、必死で説得する。

「あれから、私には君だけなんだ。君にすべてを捧げるために生きてきた。愛だけ、なんだ」


 放水路を満たしたのは、河川から氾濫した水ではなく、感情だったのだ。

 それは、愛、という。

 名付けた瞬間に、この世のありとあらゆる事象を説明することができる感情。


 しかし、それが事実だとしても。


「愛でさえ、その逆の感情がなければ認識することはできません。他のすべてがなくなれば、愛もまた、存在できない」

「私は違う。君だけの愛で成立している」

「そんなことは不可能です。あなたの狂信的な愛は、一時的には新しい世界を構築するかもしれない。だけど永遠に続きはしません」

 一言一句に、力を込めて。精一杯の抵抗を。


「……賭けを、しましょう。あなたとわたし、どちらが正しいか」


「どうするんだ? その体勢から私を刺すとでも?」

「いいえ」

 不敵な笑みを浮かべたのは青年ではなく歌姫だった。

 自らの心臓目がけて刃を振り下ろそうと――したそのとき。

 背後から。

 何者かが歌姫の腕を掴んで上げた。


「お前はほんとうにばかだな。同じことを繰り返すつもりか」


 狼の毛皮を被った、着流し姿の、青年が立っていた。

「……ミィさん」

 それはあまりにも自動的だった。

 歌姫は発した言葉によって、――ルゥに、なる。


「だ、誰だ、お前」

 狼狽えているのは青年だった。

「どこから現れた! それに、その恰好、気味が悪い!」

 エメリーはルゥの手から短刀を取ると床に投げ捨てた。

 左手は腰に当て、右手は顎にやり、堂々としたしぐさで男の前に進み寄る。ルゥと男の間に立って、大げさに溜息を吐き出した。

「やれやれ。創造主がこんな弱々しい奴だったとは、がっかりだ」

「し、質問に答えろっ」

「ぼくにも分からないさ。ただひとつ言えるのは、こいつがぼくを呼んだんだ」

 エメリーはルゥに背を向けたまま、親指でルゥを差した。

 え。と、ルゥは小さく呟く。それは驚きから出たものだった。


 ――心なしか、その声が弾んでいるように感じたのだ。


「ぼくのことも、お前のことも、知りたいと。会いたいと。あれほどぼくに傷つけられたのに、学習能力のなさにはほとほと呆れる。しかたないから助けに来てやったのさ」

 ルゥはうそぶくエメリーの背中をじっと見つめた。

(違う)

(この世界は、わたしが見ている夢なんだ)

 空の欠片が降り積もり、融けた後の世界。世界の穴は広がりつづけた結果、元に戻ろうとしていた。

 どの世界を選ぶかという問いかけを、歌姫から歌姫に投げかけているのだ。


(そこへあなたが応じてくれた……助けに来てくれた)


 ルゥの胸中に熱がこみあげてくる。鼻をすすって。涙を零さないように。

(力が……湧いてくる)

 世界に、彩りが戻ってくる。

「××さん。わたしは、あなたのものにはなりません」

 ルゥは立ちあがり、エメリーの横に立つ。

「だけど次の世界では、きっと、あなたとも違うかたちで出逢います。そのときには、ゆっくりとお話しできるかもしれません」

 その瞬間、決定的に道は分かれた。

 何かが目に見えて変化したのではないけれど、確実に。

「……」

 がくん。

 男は膝から床に落ちた。

 命の炎が燃え尽きてしまったかのように、頬は一瞬にしてこけ、視線は虚空を彷徨い、言葉にならない音声をぶつぶつと呟きつづけている。

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