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静謐な空間に衣擦れの音が微かに響いていた。
「完全な歌姫さま。さぁ、舞台へとまいりましょう」
今や双眸に紅を有する歌姫は、大きな白い襟と闇色のワンピースを身に纏っている。
髪の毛は短く切り揃えられて艶めいていた。天使の輪が光って、さらさらと揺れている。白い肌をさらに透明に見せる、頬紅と口紅。大きな雫型のイヤリングが耳元でゆらめく。額には瞳と同じ色の顔料で小さく花が描かれていた。裾に金糸で繊細に刺繍の施されたウィンプルと、闇色のヴェールをつけている。
ぼんやりとした表情で、歌姫はサファイアたちに手をとられながら静かに長い廊下を歩く。
「無様だな」
静寂をぶち破るように、一行の前に現れたのは、狼の毛皮を頭に被った青年。
「完璧な傀儡に成り下がるとは。わざわざ研究所に戻って贄になるなんて、お前はいったい街で何を学んできたんだ」
不遜な態度のエメリーだった。
鈍色の着流しは千鳥模様。青緑色の帯に刀を差している。
両手は着流しの袖に隠したまま、歩幅は大きく歌姫に真正面から近づいてきた。真正面に立つと、蔑むように笑みを浮かべて、わざと下から顔を覗きこむ。
「どちらさまですか」
返ってきたのはか細い声だった。
「ちっ。心まで囚われているか」
エメリーは勢いよく、両手を袖から空中に向けた。そして、一切躊躇うことなく刀を鞘から抜く。
暗闇の色をした刃が鈍く輝きを放ち、そのまま闇へと溶けていく。
真紅とはまた異なる、なににも染まらない孤高の光。
「きゃー!」
サファイアたちは悲鳴をあげながら警備を呼びに走って行ってしまった。
その場には歌姫とエメリーのみが残される。エメリーは一切の躊躇いなく、刃の切っ先を歌姫へと向けた。
「号を、鋼玉刀という。生きとし生けるすべてを冷たい灰の鋼玉へと変えることができる。パパラチアの屋敷の庭に転がっていたものたちもそうだ。あの物好きが、拾い集めた」
喉元と刃の隙間は僅か。
……しかし歌姫は動じない。空っぽの人形。紅の瞳の容れ物。
手術によってすべてを消し去った、歌うためだけの存在……。
「恐怖すら、もはやないというのか。だとしたらお前にもう用はない」
エメリーは迷いなく刃を振り上げた。
「ここで、その紅、貰いうける!」
刃が空に舞い、音を切る。
――その刹那、鋼玉刀が透明な眩い光を放つ――
――歌姫に重なるようにして同じ顔、しかし黒い双眸の、女性の虚像が浮かぶ――
どさっ。
「!?」
弾かれたようにエメリーは歌姫から離れ、そのまま床に腰をついてしまう。
「今のは……なんだ」
眉を寄せて、エメリーがぼそっと呟く。遅れて、からん、と床に落ちた鋼玉刀は、紅色に染まっていた。
エメリーはゆっくりと鋼玉刀を拾う。掲げても、もはや漆黒ではない。
「ぼくの鋼玉刀が」
「あれ? わたし、なにを? ここはどこ?」
被さるようにルゥの声。我に返って、目を丸く開いていた。恐る恐る自らの手を髪の毛に当てている。
「な、なんか髪の毛がさらさらしてる……? しかもこの服……? 歌姫……?」
「ちっ」
逡巡の末に刀を鞘に収めて、エメリーは立ちあがった。
「自我を取り戻したのか」
「ミィさん! またあなたが何かしたんですか!」
エメリーの存在を認識してルゥが叫んだ。紅色の瞳は既に潤みはじめている。
ぐしゃぐしゃと髪の毛を掻きむしり、エメリーはぼそっと呟く。
「……やれやれ。かえって礼を述べてほしいくらいだ」
「どういう意味ですか!」
「説明する気力はない、追っ手が来た」
え? とルゥが後ろを振り返ると、ばたばたと、サファイアたちが走って向かってきていた。警備員らしき姿も見える。サファイアのひとりが遠くから叫んだ。
「あれが不審者です!」
「歌姫さま! ご無事で!」
「……ふん。万事休す、か」
応えず、ルゥは勢いよくその手を取って逃げるように走りだす。
「こっちです!」
俊敏に逃げこんだのはルゥ自身の部屋だった。
内側から錠の部分を壊して開かないようにする。扉の前に、椅子やデスクや本を積みあげる。
「なにぼーっとしてるんですか! ミィさんも手伝ってください!」
気圧されたのか、エメリーも手当たり次第に家具を扉の前へ持っていく。
あっという間に白いものの集合体で扉はふさがれた。すべて白いけれど、微妙にひとつひとつ、明度や彩度は異なる白たち。ルゥの世界だった。たった、これだけ。それでも。
「これでしばらくは時間を稼げるはず、です」
ルゥは肩で息をしながら鏡の前に立った。
「……」
切り揃えられた髪型と、自分のものではないワンピース。そして、鏡越しに、両手で瞳の紅色に触れた。
ルゥだけど、ルゥではない。
横たわった虚ろな歌姫の姿がよぎる。
(最期まで、言えなかった。ごめん、って)
(助けられなかった。パパラチアさんだけじゃなく、妹のことも)
深呼吸を繰り返してからがくんと項垂れた。絞り出すように確かめる。
「……助けてくれた、訳ではないんですよね」
エメリーは何も言わずに顔を横に向けた。両手は袖に隠したままだ。
「そうですか」
肯定と受けとめたルゥは、デスクの上の鈍色の石……鋼玉を手に取った
「それでも、お礼は言わせてください。ありがとうございます。最初に連れ出していただけたことも含めて。きっとミィさんが来てくれなければ、わたしは傀儡として一生を終えたでしょう。……だけど、許せないこともたくさんあります」
鋼玉の鋭い部分をエメリーに向けた。
(エメリーさんのことをどう思えばいいのか、分からない)
(白か黒か、決めきれないでいるんだ)
しばしの沈黙。やがてエメリーはルゥに向き合う。
「……礼をしたいというわりには、物騒だな」
悪びれることもなく、肩をすくめてみせた。
ぷるぷるとルゥは首を横に振る。しゃらん、とイヤリングが揺れた。
「妹とはもう話すことができないけれど、あなたとはまだそれができます。どうしてあんなことを……パパラチアさんの殺害に加担したのか、わたしは知りたい」
ルゥの瞳に、迷いはなかった。
「まずはここから逃げましょう。そして、あなたのことを理解するきっかけをください」
馬鹿にされるか、否定されるかの二択しかないだろうと思いながらも。
(教えてほしい。あなたのことを)




