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(なんて無機質な、ただの箱なんだろう)
鋼玉研究所を臨み、ルゥは目を細めた。ぶるっと小さく身震いして、布を被る。
広大な敷地は金属製の柵で、そしてその中央はさらに鈍色の高い壁で四方を囲まれている。そのなかの不自然な空色の箱の群れが国家機密の詰まった建物だ。
親指と人差し指で丸をつくって覗けばそのなかに収まってしまうのだ。たった数日離れていただけなのに、ルゥの瞳にはまるで違ったものに映った。空中列車から見下ろしたときにその小ささに気づいてしまったのかもしれない。
――物理的にも、精神的にも。
(わたしの世界のすべてだったのに)
生を授かった場所は、檻でもあった。
帰りたいとは思わなかったのに。戻ることなんてないと思っていたのに。
ルゥはしっかりと息を吐き出して、深呼吸を繰り返す。
その頭上を、1羽の白い鳥が円転自在に飛んでいった。
金属製の柵は登れたとしても天辺の鉄条網に阻まれてしまうので、まずはエメリーに教わった抜け道を探した。しばらく歩いてようやく見つける。雑草に覆われているせいで誰にも気づかれない、人間は這いずればなんとか通れる小さな穴だ。ためらうことなく屈んで雑草に顔を突っこむ。
「よいしょ……っと」
敷地内に入り立ちあがると、服についた土埃を払った。
鋭利な雑草の葉で手の甲と頬は少し切れていた。それらも布で拭って、しっかりと立つ。
間近で見るとやはり空色の箱は巨大なものだ。
対峙すると呼吸を忘れそうになる。両手で頬を包んで、軽く叩いた。
(大丈夫。わたしは、外の世界を知っている……)
ルゥは、正面玄関へ向かう一本道を踏みしめながら歩いて行く。
研究所で生きていたら一生知ることのなかった、靴を履いて地面を歩く感触を、確かめながら。味わいながら。
(どうかあの子が無事でありますように)
そして、檻のなかでは決して願うことがなかった、妹のことを考えながら。
正面玄関にはふたりの警備員が立っていた。制服を着ていても隆々とした筋肉が分かる、格闘家のような相貌の男たちだった。無表情で威圧感がある。警備員というよりは、阿吽像のごとき門番のようだった。
そのふたりのちょうど中間地点にルゥは仁王立ちになった。無言で、唾を飲みこむ。
警備員たちは突然の侵入者を視線で威嚇する。今にも襲いかかってきそうな緊張感。
「何者だ」
「どこから入ってきた」
「……」
ルゥは答える代わりに頭を覆う布を勢いよく取りさった。
ふぁさあっ。
――短く、かつめちゃくちゃになった髪の毛が露わになる。それから眼帯を外して地面へ投げ捨てた。
右の瞳はルゥがルゥであることの証、誰にも真似することのできない鋼玉の色。
警備員たちの眉がぴくりと動く。まさか、と視線が問いかけてくる。それはルゥにとって、ほんの少しだけ爽快な気分をもたらした。
「右のルベウス・コランダムが戻りました」
澄みきった雲ひとつない空に、ルゥの澄んだ声が響いた。
◆
「おかえりなさいませ」
「おかえりなさいませ」
自分の部屋に戻ったルゥを、メイド姿のサファイアたちが出迎える。
室内はエメリーに導かれて出たときのままだった。白い天井。床。壁。ルゥの世界のすべてだったもの。
懐かしむように棚の本の背表紙をひとつずつ丁寧になぞっていく。
「『第一次産業から見る我が国の歴史』。『経済学入門』。『類語辞典』。……」
地理や歴史、経済や国語の書物は数あれど、食べ物関連のものは一冊もなかった。
「どうりで」
ルゥは誰にも理解できない言葉を呟き、くすりと笑った。
ふいに、全身鏡に映る自らと視線が合う。
右の真紅、左の漆黒は変わらないというのに。短く適当になったぼさぼさの黒髪からは艶が消えている。頬にはできたばかりの擦り傷。プルオーバーの袖口は汚れ、ベストやズボンにも土がついたままだ。靴も擦れている。
みなしごのような、当てのない旅人のような。
それでも研究所にいた頃より、瞳には強い意志が満ちていた。
(まるで……わたしじゃないみたい)
鏡の前でくるりと一回転してみる。こつん。ベストのポケットから鈍色の石が落ちた。
ルゥはしゃがんで石を拾う。最果て博物館で、慟哭し、髪の毛を切ったときのものだ。
(ミィさんは今頃どうしているだろうか。またなにか悪いことをしているんだろうか……)
先端は鋭利なのによく服を裂かなかったものだ。じっと見つめてから、デスクの上にそっと置く。
「あ、姉君、さま」
ひとりの幼いサファイアがおずおずとルゥに近寄ってきた。
「そのようなお姿になられて……全身煤だらけでおいたわしや。まずは湯浴みをなさってくださいませ」
「おかしいですか?」
「ええと、ルベウスさまは身なりをきちんとされないと、その」
振り返ったルゥから微笑みを受けて、サファイアは言いよどんだ。
これまでルゥが笑うことなど皆無だったのだ。
常に不機嫌な、軟禁された、歌姫のなりそこない。誰からも見捨てられた存在。それがかつてのルゥだった。
ばっと、ルゥは両手を広げてみせる。
「わたしは望んでこの姿になりました。動きやすくていいですよ?」
「あ、姉君さま……」
「あなたがたから話を聞いてきたように、わたしも街でいろんなことを経験してきました。クレープもドーナツも美味しかったです。食べたことはありますか?」
「いいご身分だな」
サファイアに向かってルゥが言葉をたたみかけようとしたところを、闖入者が遮った。
「所長さま」
「所長さま、お疲れさまです」
サファイアたちはばつが悪そうに壁際で整列して俯く。
部屋にずかずかと入ってきたのは、スーツの上にくたびれた白衣を羽織った男。
『手術の日が決まった』
つまり、ルゥに死を宣告した男。
「……」
ルゥは挨拶することも、愛想をよくすることもなく真っ直ぐに男を見据えた。
「久方ぶりだな」
こつ、こつと先の尖った、踵のすり減った革靴を鳴らしながら部屋へ入ってくる。
ふたりの視線は空中で交差する。友好的な雰囲気は微塵もない。
「右のルベウス・コランダム」
所長は眼鏡の位置を直しながら言う。
「まさか戻ってくるとは思いもしなかった」
「……妹はどうしたんですか。誕生祭に現れたのは、偽者でしたね」
「謝罪のひとつもないとは流石だ。こちらがどれだけ大変だったか知りもせず、知った口を。こんなことになるくらいなら猶予を与えず拘束すればよかった。何枚の始末書と顛末書と報告書を書かされたことか」
所長は、わざとらしく溜息をついた。
しかしルゥは一切怯まない。
「妹に会わせてください」
ふっ。所長の眼鏡の奥が光る。
「いいだろう。ついてこい」
所長は踵を返して部屋から出た。
冷たい廊下を、ルゥは所長の後について歩いていく。その後にサファイアたちも続いた。
「どこの誰が入れ知恵をしたのかは分からないが、まさか貴様がここから抜けだすなんて夢にも思わなかったぞ。ここ以外に生きていける場所なんてなかったから、諦めて戻ってきただけなんだろう?」
背中が毒を吐いてくる。
どろりとした粘度の高いそれはルゥにまとわりつこうとする。かつて、尊厳を貶め、生きる意志を奪い、諦観の底にルゥを沈めてきた毒だ。
目に見えるものではないけれど、数多の触手を持っている。
一度囚われてしまえば逃げられない言葉の檻。
……しかし、今のルゥには、その毒をはねのける力があった。次々と払い、薙ぎ倒し、決して怯むことはない。




