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◆
食堂から出たルゥはあてもなくふらふらと歩きつづけたが、疲れて広場の片隅に座っていた。
ぼんやりと人間を眺めていた。
ボール遊びをしている子どもたち。花冠を編んでいる女性たち。食事をとる家族連れ。
かつてルゥは、読書が好きだった。読書以外にすることがなかったからかもしれない。しかし物語だけは、いくら読んでも日常風景というのがどうしても想像できなくて、面白いと感じたことがなかった。
眼前に広がっているのはまさにそんな、色とりどりの光景なのだ。
「ナイスキャッチ!」
「見て、わたしの花冠。これなら聖祭で目立つと思わない?」
「ママのごはんが一等賞だね」
楽しそうで、会話がさざ波のように心地いい。
(いいなぁ……)
一方で、羨めば羨むほど、自らが独りだと意識せざるをえなかった。
(あれが……人間。わたしとは、ちがう)
やがて世界は段々と、青色から黄金へ、そして闇へ傾いていく。
一日が緩やかに終わろうとしている。ルゥは肌寒さを感じて、ぶるっと震えると、布をしっかりと巻き直した。
「君、大丈夫?」
「え?」
顔を上げる。ルゥの目の前に、ひょろりと背の高い、眼鏡をかけた細身の青年が立っていた。
自転車に乗っていたようだが、話しかけてくると同時に自転車を停めて降りる。
「泣きそうな顔して震えてるから気になっちゃって」
眉を下げて、心配そうに覗きこんできた。
「よく見たら、顔、真っ青じゃん! 何時間か前に通ったときにおかしいなとは思ってたんだよ。そしたらまだいるし、なんか凍えてるし。話しかけてよかったよ」
青年が微笑む。
柔和な笑顔に、ルゥはようやく我を忘れかけていたことに気がついた。
あんなにたくさんの人間がいたのに、もう誰もいなかった。辺りはもう真っ暗だった。ふたりを照らしているのはオレンジ色の淡い街灯だ。
くるくるとした金髪の持ち主は、質問を続けてくる。
「あまり見かけない顔だけど旅人さんだよね?」
「あ、はい」
反射的に首肯すると、青年の表情がぱっと明るくなった。
「泊まるところはある?」
「これから……」
ルゥは考えていなかったことを指摘されて言いよどむ。
「だったらうちにおいでよ。あの浅葱色の宿なんだ。せまいからくつろぐのは難しいかもしれないけど、サービスはたくさんするよ!」
突然の提案だった。ルゥは驚いて目をぱちくりとさせた。
「あ、下心はあるから安心して。君の旅の話を聞かせてほしいんだ。おれ、そういうのにすごく興味があってさ」
青年はきらきらと灰茶色の瞳を輝かせた。
「はぁ」
「名乗ってなかったね、おれはロージ。君は?」
「ル、ルゥ」
勢いに押されてルゥは弱々しく名乗る。
「オッケー! ルゥ、じゃあ行こうか」
拒否できない雰囲気に、ルゥはしかたなくロージと歩き出す。
ロージは自転車を引きながらルゥの歩調に合わせてくれているようだった。
「うちの宿、悪くはないと思うんだけど、なかなか人気がなくって。歌姫さまの聖祭が近いっていうのに空室がたくさんで困ってるんだ」
一方的にまくしたてる。
しかしルゥは話半分に、考えていた。
(このひとはもしかしたら『鋼玉鑑定士』かもしれない。わたしの正体に気づいて、瞳を狙っているのかも。寝床が確保できるのはありがたいけれど気を抜かないでいよう……)
すると、夜の闇よりも気持ちは重たく沈むのだった。
(わたし、ひどい……)
ロージの話に、適当に相づちを打ちながら歩いていると、やがて浅葱色の四角い建物の前に辿り着いた。壁はざらざらとしていて、屋上から地面までうねうねと蔦が這っている。
ロージはその前に自転車を停めて鍵をかけた。大声を出しながら扉を引く。
「はい、着いた。とーちゃん! お客さん連れてきたよ!」
フロントと呼ぶには粗末な造りのデスク奥に、いかつい顔をした中年男性がいた。ロージの父親、宿の主人はルゥのことをじろじろと睨んでくる。
(こ、こわい顔)
おずおずとルゥは頭を下げるしかなかった。
「……こんばんは」
するとにかっ、と宿の主人はいかつい顔ではにかむ。
「ようこそ!」
反射的に、びくっとルゥは肩をすくめた。
「なんもねぇけどゆっくりしてってな! ほら、ロージ、部屋へ案内しやがれ」
「はーい。ルゥ、こっちだよ」
振り返ると主人は決して友好的には見えない笑顔をルゥに向け続けていた。
「ごめんな。とーちゃん、顔と口が悪いんだ。気にしないでね」
「い、いえ」
「お腹空いてる? 晩ごはん食べるなら、かーちゃんに頼むけど」
「あ、いや、大丈夫です」
「そっか。遠慮しなくていいからね? 明日の朝ごはんは用意するから、起きたらさっきのとこまでおいで。おやすみ」
「……おやすみ、なさい」
ぱたん。
個室に入って明かりを灯す。
薄暗くて狭い室内には黄緑色の小さなベッドが置かれていた。
小さな飾り窓は高い位置にあり、自分で開けるのは難しそうだった。入り口には小さな歌姫の像が飾られている。花で編んだ飾りが頭に載せられていた。
(たしかに、狭い)
ルゥはようやく眼帯を外して、そろそろと服を脱いだ。
ベッドに腰かけるとぎぃ、と軋む音がする。簡素なベッドは、勢いよく倒れこめば壊れてしまいそうな脆さだった。布団もぺらぺらに薄く、くたびれていた。それはルゥが今まで寝たことのないものだった。
(ちゃんと眠れそうにないのは、かえってちょうどいいかもしれない)
胸の奥でもやもやとなにかが渦を巻いているようだった。
(すごく優しそうに見えたけど、何を考えているかなんて分からないんだから)
最初に声をかけてくれた二人組の男だって、ルゥを利用しようとしていたのだ。
ロージだって、この宿だって、ルゥに対してどんなことをしてくるのか分からないのだ。
(寝ちゃ……だめだ……)
それでも横になると、泥のなかに意識が引きずりこまれていくようだった。
(妹……パパラチアさん……)
自然と頬を伝う雫。きらきらと結晶に変化してぱらぱらと床に落ちる。
闇に吸いこまれるように、ルゥの世界は閉じていった。
◆
どんどんどん。どんどんどん。
「ルゥ、おはよう! 起きてる?」
どんどんどん。どんどんどん。
「!」
はっ。目が醒めると、窓からは眩しい光が射しこんできていた。明るくなった室内はクリーム色の壁。歌姫像の花冠の色は、柔和な白。
ルゥは慌てて身なりを整えて扉を開ける。
「おはよう! いつまで経っても起きてこないから、起こしにきちゃったよ」
薄い扉の向こうには、昨日とまったく同じ笑顔でロージが立っていた。
くるくるとカールした短めの金髪。二重まぶたに、灰茶色の瞳。襟つきの白いシャツは胸元に鮮やかな花束の刺繍が施されている。ゆったりとしたズボンの色は紺色で、黒くて艶のある紐靴を履いている。爽やかな好青年の典型例、という表現がぴったりだ。
大きな掌をぱっと向けてくる。
「朝ごはん、用意してあるよ」
フロントの手前には茶色い真四角のテーブルと椅子が二脚セットされていた。
テーブルには向かい合って二枚の白いランチョンマットが敷かれている。中央には細くて青い花瓶に、歌姫像に飾られていたのと同じ白い花が一輪活けてあった。
「さぁ、座って。運ぶから」
促されてルゥは片側に座った。
ロージがガラスのコップになみなみとオレンジジュースを注いでくれる。大きな一枚の皿にもりもりと朝ごはんが載せられてきた。
分厚いバタートーストからはかぐわしい湯気が昇る。スープは透き通った黄金色。具材はほんの気持ち程度の刻んだ玉ねぎ。バタートーストに負けないくらい分厚い、ハムステーキ。網目模様にこんがりと焼き色がついている。隣には白と黄色のコントラストが鮮やかな目玉焼き。
「コーヒー飲める?」
「の、飲んだことないです」
「じゃあだめだったら牛乳入れよう」
ロージがてきぱきと動いてセッティングをしてくれた。
白いカップに真っ黒なコーヒーが淹れられたところで、ロージはルゥの反対側に座った。
「いただきます」
「いただきます」
さくっ。バタートーストをほおばると軽やかな音がして、口のなかにバターの芳醇な風味が広がる。
(美味しい)
夢中で食べる。オレンジジュースは果肉が残っていてつぶつぶと飲み応えがある。ハムは勢いよく噛みちぎってしっかりと咀嚼する。噛めば噛むほど旨味が増した。
ひたすら食べつづけるルゥの様子をロージはにこにこと眺めていた。
「ぐっすり寝られた? 女の子にはしんどいだろうけど、ルゥみたいな小柄なヤローにはちょうどいいと思うんだよね」
ふとルゥは食べる手を止める。
(そうか。わたしのこと、男だと思っているんだ)
拙いながらも変装は成功しているようだった。相手を騙せていることに、少しだけうれしくなる。
「美味しい?」
「あ、はい。美味しいです」
「敬語なんか使わなくたっていいんだよ。おれたち、友だちだろ?」
(とも……だち?)




