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『感情のままの旋律』

帝国歴 324 年 1 月 1 日 。

帝国を襲った奇怪で凄惨な事件から、ちょうど一年経つ。アルストラーナ帝国は第 15 代皇帝にイリアードが即位していた。先帝の息子であり、皇太子となったリアムの妻、つまり皇太子妃シルヴィアは先帝の娘である。何よりそれまでの功績が圧倒的に抜きんでていたために、宮廷文武百官にとっても文句のつけようがないのが現実であった。

例年なら元会儀礼の華やかさが、帝国の帝都ラーナ全体を覆い尽くさんばかりであるが、今年に限っていえば、昨年の悪夢を思い起こさせて静けさを感じずにはいられない。 宮殿には無数の貴族や使節が集い、絢爛豪華な宴と祝辞の応酬もそこそこに、新皇帝も心得ていて成り行きに任せ、無理強いはしないよう心掛けていた。

一年前のラーナの夜空は不穏な紫のオーロラが覆っていたが、今夜は違っていた。満月を迎えた月が白く大きく輝いていたのだった。 「……ベルトト、感じるでしょう?」 皇后としてイリアードの横に控えていたリゼリアが、女官長となったベルトトに囁いた。 あの時に酷似しているのだ。異能の力で勘の鋭いリゼリアは胸騒ぎが収まらなかった。 だが、それは悪い前兆ではなく、良い方の胸騒ぎである。 皇太子妃シルヴィアは臨月を迎え、いつ陣痛が始まってもおかしくない状態にあった。

だが、周囲の侍女たちや医女たちが息をのんでいたのは、単に出産が近いからだけではない。 春宮の寝所に横たわるシルヴィアを見つめながら、何か強烈な光?熱?力?のようなものを感じ取っていたのであのる。 「ええ、皇后様……皇太子妃殿下の春宮から、すごい『力』を感じます」 宮廷全体が新たな年の訪れの喜びにあふれる中、春宮は異質な緊迫感に包まれていた。

「……私のお腹の中から、抑えきれないほどの『力』が溢れ出ている」 シルヴィアは少し蒼白な顔で、しかし愛おしそうに大きく膨らんだ自分のお腹をさすった。リヴィエール家の一族の血を引く女性は、生まれながらにして常人を遥かに超える異能を有している場合が多い。 皇后リゼリアは念話や念視、予知を司り、貴妃セシリアは念動や念力、そして無から有を生み出す念創の力をその身に宿していた。皇太子リアムはリヴィエールの血を受け継いでいるが、皇太子妃シルヴィアはリヴィエールとは無縁の血統である。血が濃いとは言えない。ココロギのように血が薄くても強い力を持って生まれる場合もある。 ただし、ココロギの場合は残念な事にその力を自在に操れないのが欠点であった。

皇后リゼリアと女官長ベルトト、二人のリヴィエールが肌で感じていたのは、ただならぬ強力な異能の波動だった。 それは、まだ見ぬ赤ん坊――シルヴィアのお腹の中に宿る小さな命から発せられているものだった。生まれ落ちる前から、リヴィエールの強力な念動や念力を引き継ぎ、あるいはそれを超えるほどの圧倒的な念波が、うねりのように部屋全体を揺らしていたのだ。部屋に飾られた花瓶や壺などが、赤ん坊の脈動に同調するようにかすかに振動している。

「これほどの力を……生まれる前の幼子が放つだなんて」 リゼリアははっきりと覚えていた。 18 年前のあの時と一緒なのだ。 皇太子妃の傍に仕える女官や医女たちは額に冷たい汗を浮かべて緊張を隠せずにいた。 遠い場所にいるベルトトも息を殺してその波動の渦を見守っている。

「……出産が始まりますわ。行きましょう」 リゼリアが予知の力をかすかに働かせ、静かにベルトトに告げた。 その言葉が終わるか終わらないかの同時刻、春宮でシルヴィアの表情が劇的に強張った。 出産が始まったのだ。

「くっ……! あああっ……!」 激しい陣痛がシルヴィアを襲う。 「妃殿下!」 「シルヴィア!」 皇太子リアムが駆けつけ、彼女の手を強く握りしめた。 初産であり、しかもこれほど強力な異能の波動を放つ子だ。侍女も医女も、そしてリアムも、難産になることを覚悟していた。胎児の持つ強大すぎる力が母体に負担をかけ、お産を阻むのではないかと誰もが危惧したのだった。

しかし、事態は誰もが予想しなかった方向へと展開した。 「あ、アアアッ――!」 シルヴィアが短く叫ぶ声をあげた、まさに次の瞬間だった。 ドォン! と、空間そのものが跳ね上がるように目に見える波動が部屋の中央で弾けた。 それは遠く離れた宴席の大殿でも感じられるほどであった。 春宮の重厚な木製の扉がガタガタと激しく揺れ、室内の燭台の火が一斉に揺らめく。シルヴィアのお腹から解放された強烈な『念力』が、まるで産道を導きながら力づくで押し開き、世界の表側へと押し出そうとするかのように作用したのだった。

「なっ……!?」 リアムが目を見開く暇すらなかった。難産どころか、陣痛の始まりから信じられない早さで、まるで弾丸のように、しかし母体を傷つけることなく完璧な力加減で、赤ん坊が外へと滑り出てきたのだった。

「オギャアアアアッ! オギャアアアアッ!」 産声が部屋いっぱいに響き渡る。「ええ、生まれました……! 女の子です!」 医女が狂喜と動揺の混ざった声で叫んだ。12 月の時点でリアムの母、皇后リゼリアが予知した通り、シルヴィアが産み落としたのは愛らしい女の子だった。

だが、抱き上げられた赤ん坊の周りでは、依然としてあり得ない現象が起きていた。 赤ん坊が小さな手をぶんぶんと振ると、バサバサッと産着の布が空中を舞い上がり、テーブルの上の水差しがフワリと浮き上がる。生まれたその瞬間に、自身の『念動』の力を本能のまま発散させているのだった。 その光景を目にしたシルヴィアは、我が子の無事への安堵とともに、背筋に冷たいものが走るような、どこか『恐ろしさ』さえ覚える圧倒的な才能の片鱗を感じ取っていた。

(この子は……成長した時、どれほど強大な力の持ち主になるというの……?) 自分の娘でありながら、その潜在能力の底知れなさに一瞬だけ気押されるシルヴィア。リアムもまた、浮かび上がる小物を呆然と見つめていた。医女たちが素早くシルヴィアと赤ん坊を奥のベッドへ移し、温かいお湯を用意する。

◇

後宮の一角にある『水明宮』。 春には様々な花が植えられ、若木が芽吹く爽やかな庭園のある居館である。 女主人が『花の都、芸術の都ルミナリア』出身であり、時折、古琴をかき鳴らす風雅な情を持調していることで、静かで趣のある館を与えられている。 その居室に女主人が静かに座っていた。 名はセシリア。側室、貴妃の位を持つ女性である。 皇后リゼリア、皇帝イリアードの双方とも従姉妹、従兄妹の関係にある。 四十よそじにして衰え知らずの美貌は、先祖に『異国の漂流民』の血を引いている伝説があると聞けば、誰もが無条件に納得してしまうほどだった。一族には独特の雰囲気を纏った美貌の持ち主が数多く生まれてくるのは事実であった。

しかし、彼らが秘めている真の謎はそれだけではない。一族の根幹に関わる『もう一つの秘密』が存在するが、それについて語ることは一族の者たちの間では公然の秘密となっていた。 セシリアの持つ、宮中の誰も知らない秘められた資質――念話や念動、念創などである。 彼女は、人の心の声を感知し、どれほど離れた場所であっても、血の繋がりのある者、あるいは魂の波長が深く重なる者の声を天の気流に乗せて聴き、また届けることができたのだった。

(よかった……無事に生まれたのね。よく頑張ったわね、皇太子妃殿下……) 皇后リゼリアと念による会話をし、セシリアが心から祝福を送った、その時だった。 安らぎの茜色で満たされていた空間に、真新しく、恐ろしいほどに純粋な『声』が立ち上がった。

――おぎゃあ、おぎゃあ。

それは、生まれたての赤ん坊の泣き声だった。 しかし、セシリアの耳に届いたのは、単なる物理的な赤ん坊の泣き声ではなかった。それは、生まれたての命が放つ、透き通った瑠璃色の光の束であり、言語になる前の、魂の叫びだった。 数百メートル離れた距離で、セシリアの意識は、その生まれたての赤ん坊の意識と直結した。

赤ん坊の視点から世界が見える。 寒くて、眩しくて、恐ろしい世界。母の温かい胎内から急に押し出され、冷たい空気にあらわにされた皮膚の違和感。赤ん坊はあまりの環境の変化に戸惑い、圧倒的な不安から小さな胸を波打たせて泣いていたのだった。

(怖がらないで……!) セシリアは、魂の祈りを尽くして語りかけた。自分の意識の糸を柔らかく紡ぎ直し、水明宮から春宮へと優しく伸ばしていく。 (聞こえる? 私はここにいるわ。あなたのお義祖母よ。大丈夫、恐ろしいことは何もないの)

すると、不思議なことが起きた。 赤ん坊の激しい泣き声が、ふっと止んだのだ。 赤ん坊の精神の世界で、セシリアの言葉は音ではなく、「包み込むような温かい光」として認識されていた。 『……あ……?』 赤ん坊から、未分化の意思が返ってきた。言葉にはならない、けれど明確な問いかけ。 『だれ……? …ふあん……』

セシリアは、思考の像を赤ん坊の心に送り込んだ。 母・シルヴィアの温かいぬくもりと深い愛。言葉を超えたイメージが、数百メートルの空間を優しく駆け抜ける。 (見てごらん。あなたを心から愛しているお母様が、すぐそばで抱きしめてくれているでしょう? あなたは愛されて生まれてきたのよ)

赤ん坊の心が、セシリアの送るイメージに触れて、柔らかく解けていった。 『きれい……』 言葉を知らないはずの赤ん坊の魂が、セシリアの感情をそのまま翻訳して受け取っていた。先ほどまでの不安な黄金色の波動が、まろやかで穏やかな光へと変わっていく。

『あたたかい……お母さん…… おばさま……?』 (そうよ。お母様と、おばあちゃまね。ずっとあなたを見守っているわ) セシリアは深く固く、赤ん坊の魂を撫でるように意識を集中させた。 (あなたのお名前を呼びましょうね。皇太子殿下と妃殿下で決めていた名前……『シェルランテ』。真珠のように美しい鳥)

『しぇる……らんて……?』 赤ん坊の心が、その響きを味わうように反芻した。 『わたし…… しぇるらんて…… おばあちゃま、どこにいるの……?』

言葉を介さぬまま、距離という概念すら超えて心を通わせる二人。数百メートル離れた春宮では、疲れ果てた皇太子妃シルヴィアが、急に大人しくなった我が子を不思議そうに見つめていた。 赤ん坊はシルヴィアの腕の中で安心しきった顔をし、じっと空を見つめながら、まるで北西にいる誰かに微笑みかけるように小さな唇を動かしていた。

(私はね、水明宮にいるの。でも、心はいつもあなたのすぐそばにいるわ) 『うん…… おばあちゃま…… あいにきてね……』 (ええ、約束するわ。あなたを抱きしめに行くからね)

シェルランテの波動が、しだいに満足気な、微睡むような色に変わっていった。 生まれたばかりの体に猛烈な眠気が襲ってきたのだ。

「おやすみ……おばあさま……」 (おやすみなさい、愛しいシェルランテ。すくすくと大きくなりなさいね) 最後の微かな波動が途絶え、シェルランテは母の胸の中で深い眠りについた。

セシリアは静かに意識の糸を引いた。 飛翔していた精神が、水明宮へと引き戻される。 「……くっ……」 激しい脱力感がセシリアを襲った。全身から汗が滲み、息が上がる。だが、その胸を満たしていたのは、かつてないほどの幸福感だった。

「貴妃様、お顔色が……! 大丈夫ですか!?」 異変に気づいた侍女が、慌てて部屋に駆け込んできた。 「大丈夫よ。ただ、とても嬉しいことがあったの」 セシリアは荒い息を整えながら、窓の外の夜空を見つめた。後宮で新しい小さな命が芽吹いた。誕生した赤ん坊と魂を重ね合わせることができた奇跡に、胸が熱くなる。

(待っていてね、シェルランテ。あなたを抱きしめに行くわ) 風が吹き抜け、庭の白木蓮の葉を大きく揺らした。そのささやかな音はまるで、後宮で生まれた赤ん坊の安らかな息遣いのようにも聞こえた。 セシリアは愛する古琴の弦に触れ、感情のままに旋律を追いかけた。




【登場人物紹介】


ココロギ・サイリュン

聖ゲンドラス教国の教皇の娘で、リヴィエール家の血を引く少女。『真理の光教団』の巫女(通称「四つ葉様」)として後宮の聖堂に常駐している。瞬間跳躍(空間跳躍)など異能を持つが当初は制御が苦手で、失敗が多い。


ビー・スー

南国ディヌイヤ王国生まれの青年。ディヌイヤ・ラーナ公国にて『真理の光教団』の司教を務めている。丸盾と短錫杖を愛用し、快活な性格でココロギの調査や戦闘をサポートする。


フレデリカ・リヴィエール

セレスティアの主であり、恐ろしく美しい老貴婦人。リヴィエール直系のレジェンド的存在で、赤ん坊のシェルランテと共に大決戦の場に現れ、圧倒的な力で数百年の封印を押し戻し濁流を干し上げる。


【オーレリア帝国 皇室・宮廷】 


シェルランテ・フォン・アルストラーナ

皇太子リアムとシルヴィアの間に生まれた皇女(通称「白鷺姫」)。亡きルシアの生まれ変わりと噂され、誕生直後から凄まじい「念動」や「瞬間移動」を本能で使いこなす規格外の赤ん坊。


イリアード

アルストラーナ帝国の第15代皇帝。親王時代にセレスティアの大規模な治水と開発を進めた功績を持つ。孫娘のシェルランテを溺愛する好々爺の一面も見せる。 


リアム

アルストラーナ帝国の皇太子で、イリアードと皇后リゼリアの息子。リヴィエールの血を受け継いでいるが、自覚はない。


シルヴィア

皇太子リアムの妻であり皇太子妃。先帝の娘。リヴィエールとは無縁の血統だが、お腹の中のシェルランテから放たれる圧倒的な異能の波動を感じ取りながら彼女を出産した。


リゼリア

イリアードの傍らに控える皇后。リヴィエール一族の女性であり、念話や念視、予知の異能を司る。


セシリア

後宮の一角『水明宮』に住まう貴妃(側室)。芸術の都ルミナリア出身で四十を過ぎても衰えぬ美貌を持つ。念話、念動、念創(無から有を生み出す)という宮中の誰も知らない隠された資質を持ち、生まれたばかりのシェルランテと距離を超えて心を通わせた。


ベルトト

後宮の女官長。皇后リゼリアと同じくリヴィエール一族の女性。


シンシア

イリアードとリゼリアの娘。ルシアの異母妹。父親が一歩近づくと一歩後退してしまうような年頃で、少し距離がある。元から大人く、慎ましい性格ではあるが親も含め、人との接触を苦手として、避けて生活をしている。



カリナ / シエンタ:後宮で働く女官たち。ココロギの作る護符や神秘札を求めて、彼女のいる聖堂(四つ葉堂)へこっそり息抜きにやってくる。


【真理の光教団】


カシアス・ヴァロア

帝都オクタヴィアの新生大聖堂に司教として赴任した男。かつて先帝に優秀な宦官として見出され大遠征の全権を握ったが、大失態を犯して帝都を追われていた。文字を覚えたてのシェルランテの手形付きの手紙によって14年ぶりに呼び戻された。


ゲンドラス・サイリュン

『真理の光教団』の教皇であり、ココロギの実の父親。


【黒山羊結社・天信教(敵対勢力) 】


アルカディアス

仕立ての良い漆黒の外套を羽織った、白髪の穏やかな風貌の初老の男性。その正体は、帝国の影で暗躍する狂信的な秘密組織『黒山羊結社』の頂点であり、近年大陸全土に影を落とす『天信教』の真の黒幕。足元からどす黒い粘着質な影を広げる禍々しい禁忌の力を操り、アシュウェストとアルヴェリアで「大水没」の儀式を起こそうと目論む。

結社の男:漆黒の法衣をまとい、胸元に「三つの目を持つ黒山羊」の銀の紋章をつけた男。異能を強制的に封じる紫の光を放つ歪な剣を構え、旧第5ドックでココロギたちを襲ったが、二人の連携と長柄の横凪によって石壁に叩きつけられ敗北した。 


アルノルト

かつての天信教の総主教。「救世主は死せよ。世界は滅びよ」という最期の詠唱を遺して、地下の祭壇の闇の中で死亡した。

過去の歴史・故人


ルシア

かつて失意の底にあったカシアスを救い出した、アルヴェリア親王の令嬢。セシリアの実の娘であり、ココロギたちにとっては「救世主メシア」と呼ばれても遜色のない存在だった。天信教の禍々しい秘儀による結界を自身の命の灯火と引き換えに打ち破り、亡くなっている。


ヴィオ

ルシアの侍女。


ロザリア

当時の皇后。


イスファ

第四皇子。


※ヴィオ、ロザリア、イスファの3人は、ルシアが命を落とした惨劇の日に、地下で行われた禍々しい秘儀によって魂を乗っ取られたかのように発狂した。


ミカエル

数百年前、アシュウェストとアルヴェリアの底に眠る「原始の力」を隠すため、無理やりこの地に『蓋』をしたとされる歴史上の人物。



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