『永劫の夜に告ぐ終焉(ノクス・アテルナ)』
帝国歴323年1月1日
元会儀礼の華やぎが、アルストラーナ帝国の帝都ラーナを包み込んでいた。
宮殿には無数の貴族や使節が集い、絢爛豪華な宴と祝辞の応酬に誰もが心を奪われている。だが、その華やかさの影で、帝国の精神的支柱たる「天信教」の中央大聖堂は、不気味なほどの静寂に包まれていた。人々の意識が完全に宮殿へと向いているこの日こそ、千載一遇の好機。天に向かって聳える壮麗な尖塔と、陽光を色鮮やかな光の絵画へと変えるステンドグラス。しかし、地表から遥か深くに隠されたこの地下聖堂には、光を拒絶する重苦しい静寂だけが横たわっている。
「……本当に、行くのですね。ルシア様」
大聖堂の回廊、列柱の影に身を潜めながら、侍女のヴィオが引き締まった声で囁いた。彼女の凛とした眼差しは、周囲の警戒を一切怠っていない。
「ええ。天信教の慈愛の陰で、何かが蠢いている。あの地下に秘められた歪みを、この目で見届けるまでは引き返せないわ」
ルシアは低く決意を込めて応じた。彼女の傍らでは、もう一人の侍女であるココロギが、緊張に肩を震わせながらも必死に鍵束を握り締めている。
「だ、大丈夫ですルシア様……! 見張りは全員、元会の祝宴に出向いているか、手はず通り眠り薬を混ぜた茶で眠らせました。地下への隠し扉も、この鍵で開くはずです……」
ココロギが震える手で重厚なレリーフの施された壁に小さな鍵を差し込むと、低い石の摩擦音とともに、地下へと続く漆黒の階段が現れた。ひやりとした冷気が、三人の肌を撫でる。ルシアを先頭に、ヴィオが後方を警戒し、ココロギが明かりを灯したランプを掲げながら、静かに石段を下りていく。地上のにぎわいが完全に途絶え、自分たちの足音と息遣いだけが響く暗闇の世界。どこまでも続くかと思われた地下通路を進むにつれ、空気は次第に異様な重圧感を増していった。
重厚な鉄の扉をいくつも潜り、湿り気と冷気が満ちる石造りの階段を最深部まで降りきった場所。その最奥へと続く通路の角を曲がった瞬間、三人は思わず息をのんだ。闇の先から漏れ出していたのは、松明の暖かな火光ではない。不吉で邪悪な気配を孕んだ、禍々しい紫色の光だった。
「これは……何ですの……?」
ヴィオが錫杖を構え、ルシアの前にそっと身を乗り出す。ルシアは黙って首を振り、手真似で二人を制しながら、光の源である最奥の部屋へと潜り込んだ。
広い地下聖堂の空間。その中心に鎮座する祭壇の上には、脈動するように怪しい紫の光を放つ未知の物体が置かれていた。
そして、その光を真っ正面から浴びるように立ち尽くす、一人の人物の背中があった。
天信教の頂点に立つ男――総主教アルノルトである。金の刺繍が施された白銀の聖衣が、紫の影に不気味に染まり揺れている。彼は三人の侵入に気づく様子もなく、ただじっと、光を放つ物体を見つめ、何事かを低く呟いていた。
聖なる教えを説くはずの大聖堂の最深部で、総主教が崇めていたのは神の光などではない。狂気と謎を孕んだ紫の残光の中で、ルシアは己の予感が正しかったことを確信し、冷たい汗が背筋を伝うのを感じていた。
「……おお、終わりよ。静寂なる虚無よ」
低い声が、湿った石壁に反響した。
その手元で燃えているのは、蜜蝋ではなく、毒草と硫黄を練り込んだ黒い蝋燭の火だ。ゆらゆらと揺れる緑がかった炎が、老人の刻まれた深い皺と、落ち窪んだ瞳の底に宿る狂気を浮き彫りにする。
アルノルトの前に掲げられているのは、聖典ではなく、黒ずんだ羊皮紙の巻物だった。そこには、神から託されたとされる救済の預言ではなく、世界を崩壊へと導くための呪文が、古い錦語で綴られている。
「神よ、我らの愚かさに終止符を打たせ給え」
老総主教の痩せた指が、古びた羊皮紙の上を撫でる。その手は微かに震えていたが、迷いはなかった。
「人が増えるたび、地には血が流れ、欲望は膨れ上がり、苦痛の絶叫が天に満ちる。救済などという甘美な毒で、この醜悪な世界を長引かせてはならない。真の慈悲とは、すべてを巡る輪廻そのものを叩き潰すことだ……」
アルノルトは息を深く吸い込み、錦語の詠唱を始めた。
「ノクス・アテルナ、ウティナム・フィニス・アディエニエト(永劫の夜よ、終焉を齎せ)」
語調が高まるにつれ、地下聖堂の空気は目に見えて歪み始めた。黒い蝋燭の炎が激しく立ち上り、石の床からは地鳴りのような低い振動が伝わってくる。影たちが壁の上で生き物のようにうごめき、老人の声に同調して不気味な囁きを交わし始めた。
「エ・モルタリス・ソスピタトル、カダト・イン・プヴェレム(救世主たる者よ、塵へと倒れよ)」
アルノルトは両腕を天へと差し伸げた。その瞳から涙が溢れ落ち、枯れ木のような頬を伝う。
「来たれ、闇の底より出でし虚無の光よ。人々が『救世主』と呼び称えるあの幼き命を、その胸を貫け。彼が奇跡を起こす前に、世界を救うその手を血で染める前に、その息の根を止め給え」
救世主が存在する限り、人々は希望を持ち続ける。希望を持つからこそ、絶望に身をよじり、生きる苦しみを永遠に貪り続けるのだ。救世主の死こそが、この世界に与えられる唯一無二の完全なる安らぎ――それが、神の最深部に触れたと自負する総主教の辿り着いた狂信だった。
「サルヴァトール・モリエトゥル……ムンドゥス・ペリエト……(救世主は死せよ……世界は滅びよ……)」
最後の言葉が紡ぎ出された瞬間、地下聖堂の蝋燭が一斉に吹き消され、祭壇に祀られた物体が眩い紫の光を解き放った。
登場人物一覧表
ルシア:主人公。侍女たちを率いて地下聖堂へ侵入し、天信教の歪みを見届けようとする。結界を解くために命を捧げ、リアムに自らの力を託して絶命した。
ヴィオ:ルシアに仕える凛とした侍女。地下聖堂で飛散した紫の物体の破片を眉間に受け、正気を失って傀儡と化す。最後はリアムに斬り捨てられた。
ココロギ:ルシアに仕えるもう一人の侍女。気弱だが健気で、治療や瞬間移動などの異能を持つ。
アルノルト:天信教の頂点に立つ総主教。救世主の存在が絶望を生むと考え、世界を滅ぼすために邪悪な儀式を行っていた狂信者。
アラリック:アルストラーナ帝国の皇帝。祝宴の最中、正気を失った皇后ロザリアにナイフで刺される。
ロザリア:アルストラーナ帝国の皇后。天空からの紫の光球を受けて狂気に侵され、皇帝アラリックを刺害。超人的な異能を発揮するが、イリアードとリアムに貫かれ絶命した。
イスファ:帝国の第4皇子。紫の光球を受けて豹変し、実母ルネッタを喰らい、異母兄イスマを背後から殺害。玉座を狙って暴虐を尽くすがリアムに討たれる。
ルネッタ:徳妃でイスファの実母。正気を失ったイスファに襲われ生命を落とす。
リアム:雲麾将軍。イリアードの息子でイスファの従兄。ルシアから力を受け継ぎ、聖剣アウレリウスでイスファとロザリアを倒した。
イリアード:帝国の「軍神」と謳われる大元帥。ルシアの父親。『黄金の獅子剣』を振るい、狂気と化したロザリアたちと死闘を繰り広げた。
セシリア:異能を持つ女性。妹や愛娘を失う深い悲しみに苛まれる。
リゼリア:セシリアの妹。不可視の結界が消失したことで異能を取り戻し、イリアードらをサポートした。
イスマ:帝国の皇太子。狂気にとらわれた異母弟のイスファによって胸を貫かれ殺害された。
シンシア:リアムの妹でイリアードの娘。イスファに捕らわれ投げつけられるが無事に救出された。
用語集一覧表
アルストラーナ帝国:物語の舞台となる帝国。帝都はラーナ。
天信教:帝国の精神的支柱となっている宗教。慈愛を説く裏で、総主教による世界破壊の狂信が潜んでいた。
元会儀礼:帝国歴323年1月1日に行われた新年の祝賀儀式。
白亜宮 / 大極殿:帝都ラーナにある豪華絢爛な宮殿およびその中心となる大殿。
上寿酒礼:元会儀礼ののちに行われた新年の華やかな宴。
紫色の光 / 紫色の極光:天空や地下聖堂の祭壇から発生した邪悪な光。浴びた者の正気を奪い、紫のオーラや人間離れした異能・狂気を付与する。
聖剣『アウレリウス』:リアムが所有する鋭い聖剣。
黄金の獅子剣:大元帥イリアードの愛剣。イリアードの闘気に応じて黄金の光を解き放つ。
錦語:古い言語。総主教アルノルトが世界の崩壊と「救世主」の死を祈願する呪文の詠唱に使用した。
結界:登場人物たちの異能の力を封じ込めていた不可視の力。ルシアが自らの生命と引き換えに解除した。




