『転生姫の朝寝坊』
四月の終わり。
水の都アクア・パレスには、まだどこか冷気を孕んだ春の朝風が吹き抜けていた。陽光が揺れる水面を照らし、ルシア宮の白い外壁に美しく煌めく光彩を映し出している。だが、その優雅で静謐せいひつな佇まいとは裏腹に、ルシアの寝室は、完全なる怠惰と微睡みの空気に包まれていた。
「……ん……ふあ……」
豪華な天蓋付きベッドの上で、一人の少女が不仕付けな寝返りを打った。ルシア・フォン・セレスティア。親王イリアードと側室セシリアの間に生まれた十五歳の姫君である。しかし、いまの彼女に王族らしい威厳や気品は微塵もない。昨夜の激務の疲れからか、美しいドレスではなく、夜間の活動用である男物の動きやすい衣装のまま、薄い掛け布団にくるまって泥のように眠りこけていた。
そして、ベッドのすぐ脇——磨き上げられた大理石の床には、もう一人の少女が丸くなっていた。
顎のあたりで無造作に切り揃えられた黒髪。眠りに落ちて閉じられた瞼の裏には、神秘的な紫の瞳が隠されている。ルシアの侍女であるヴィオだ。彼女もまた、自室に戻る体力すら尽き果てたのか、旅装束のまま床に座り込み、上半身をルシアのマットレスに預けるような格好で静かな寝息を立てていた。
世間では知る由もないが、この二人の正体は、毎夜のように悪徳貴族や闇商人から富を奪い、貧者を救う義賊『六棘の霜華』であった。
ルシアは一族最強と謳われる強力な異能を持ち、己の寝室から数千キロも離れた異国の地へ一瞬で転移することができる。昨夜もまた、他国の悪逆非道な豪商の屋敷へと忍び込み、鮮やかに「お仕事」を平らげて帰ってきたばかりだった。異能の力を持たないごく普通の少女であるヴィオは、ルシアに振り回されながらも完璧に補佐をし、結果として二人揃って体力の限界を迎えたというわけである。
本来ならば、二人は朝露が消える前に目を覚まし、何事もなかったかのように着替えを済ませ、清廉な姫君と忠実な侍女としての顔を作っていなければならなかった。なぜなら、今朝は母であるセシリアとの朝食が予定されていたからだ。
しかし、時計の針は容赦なく刻限を過ぎていく。
コンコンコン。
重厚な木製の扉を叩く、几帳面で静かな音が部屋に響いた。だが、ベッドと床のふたりには届かない。
ギィ……と控えめな音を立ててドアが開き、一人の女性が姿を現した。セシリアの側近であり、今や熟練の侍女であるベルトトだ。彼女は一歩部屋に踏み込むやいなや、ぴたりと足を止め、深々と溜息をついた。
「……また、でございますか」
ベルトトの眼鏡の奥の瞳が、呆れと呆然の入り交じった光を帯びる。室内に散らばる夜着ではなく明らかに外出用とわかる衣類、排他的で乱れた室内、そして高貴な姫君と侍女が二人揃って泥のように眠りこけている惨状。
「ルシア様。ヴィオ。……朝でございますよ」
ベルトトは足音も静かにベッドへと近づくと、まずは床で丸くなっているヴィオの肩を細い指先で容赦なく突いた。
「ひゃいっ!?」
跳ね起きるように目を覚ましたヴィオは、紫の瞳を何度もパチパチさせ、目の前に立つベルトトの姿を認識した瞬間に顔を蒼白にした。
「ベ、ベルトト様……! あ、あの、これはその……!」
「言い訳は後です、ヴィオ。それよりルシア様をお起こししなさい。セシリア様がお庭のテラスでお待ちです。もう約束のお時間を十五分も過ぎております」
「ひえっ……! 十五分!?」
ヴィオは慌ててベッドに縋り付き、ルシアの肩を揺さぶった。
「ルシア様! ルシア様起きてください! セシリア様がお待ちです! 寝坊です、大寝坊です!」
「んぅ……あと五分……ヴィオ、パン買ってきて……」
「パンではありません! セシリア様との朝食です! ほら、早く起きないとセシリア様のご機嫌が……!」
母・セシリアの名を聞いた瞬間、ルシアの眉がピクリと動いた。重い瞼がゆっくりと開き、鮮やかな瞳が露わになる。
「……お母様……? しまった、今日だっけ……!?」
「はい、今日でございます、ルシア様」
ベルトトが冷ややかな、しかしどこか諦めを含んだ声で追撃した。ルシアはガバッと跳ね起き、乱れた髪を掻きむしった。
ルシアの母セシリアは、一人娘であるルシアを深く溺愛している。だが同時に、ルシアが夜な夜な自分に秘密で出かけていることに対して、強い不満と寂しさを募らせていた。セシリア自身も異能の持ち主であり、ルシアが常人離れした力を持っているため身の危険については心配していないものの、「何故自分に隠し事をするのか」という母親としての複雑な感情を抱えているのだ。
「ベルトト……お母様、怒ってる……?」
ルシアがおずおずと尋ねると、ベルトトは小さく首を横に振った。
「怒っておられるというよりは……寂しそうに紅茶を冷ましておられます。『あの子は私との約束も忘れるようになったのね』と」
「うっ……!」
その言葉は、どんな説教よりもルシアの胸に刺さった。
「ヴィオ! 着替え! 最速で着替えるわよ!」
「は、はいっ! ルシア様、ドレスはこちらです! ベルトト様、お湯とタオルを……!」
「すでに用意してございます。さあ、お急ぎなさい」
「はいっ、ルシア様! 袖に腕を通してください!」
「あたたっ、髪引っ張らないでヴィオ!」
ルシア宮の寝室はまさに戦場と化していた。濡れタオルで顔の脂を拭い、昨夜の泥汚れを落とし、淡い水色のドレスへと袖を通す。ヴィオは手慣れた手つきでルシアの金髪をブラシで整え、一房の乱れもなくリボンで結い上げた。
「よし、完了です! ルシア様、完璧な『可憐でお淑やかなお姫様』でございます!」
「ヴィオも早く自分の服を整えなさい! ベルトト、お母様はまだテラスに?」
「ええ。冷めたお茶を注ぎ直してお待ちしております」 「走るわよ!」
ルシアとヴィオは、廊下を優雅かつ最速の歩調で駆け抜けた。淑女たるもの廊下を走ってはならないという宮殿の作法を辛うじて守りつつ、速足で中庭へと続くガラス張りの回廊を渡っていく。
まばゆい朝光が注ぐルシア宮のテラスには、白磁のテーブルと可憐な花々が飾られていた。その中央で、一人の美貌の女性が優雅に磁器のカップを傾けている。ルシアの母であり、親王イリアードの側室セシリアだ。
「……お母様! 大変お待たせいたしました!」
ルシアはスカートの裾を軽く持ち上げ、可憐なお辞儀を捧げた。後ろでヴィオも深々と頭を下げている。
セシリアはカップをソーサーに置くと、紫がかった美しい瞳をルシアに向けた。その表情には怒りよりも、どこか複雑な愛おしさと、微かな不満が滲んでいる。
「おはよう、ルシア。そしてヴィオ。……ふふ、二人とも、少し髪の毛が跳ねていますわよ? 急いで身支度をしてくれたのね」
「あ……っ、すみませんお母様。その、今朝は少し体調が……ううん、お寝坊をしてしまって……」
ルシアが申し訳なさそうに視線を落とすと、セシリアは静かに立ち上がり、ルシアのもとへと歩み寄った。そして、華奢な手でルシアの頬を優しく撫でる。
「良いのですよ、ルシア。毎夜どこかへ出かけて、私に秘密にしているのが悲しいのです」
ルシアとヴィオの体が同時にピクリと跳ねた。セシリアは自身も異能の力を有している。ルシアのような強力な遠隔移動や圧倒的な破壊力はないものの、微細な魔力の波調や、我が子の気配の変化を感じ取る勘は鋭い。ルシアが身の危険に晒される事はほぼ無いのはわかる為、無理に咎めはしないが——一人娘に秘密にされているという事実は、溺愛する母親にとって何よりの寂しさだった。
「お母様……それは……」
「いいの、話したくないなら無理には聞きません。あなたはリヴィエールの一族の中でも特別な力を持って生まれた子。私などの及ばない大きな役目や、秘密があるのでしょうから。……でもね、ルシア」
セシリアはルシアを優しく抱きしめた。その温もりに、ルシアは胸がキュッと締め付けられるような心地がした。
「私にとっては、あなたが世界の誰よりも大切な一人の娘なのです。いくら強い力を持っていても、無事に帰ってくるまでは一瞬たりとも気が気ではありませんのよ? それだけは忘れないでちょうだい」
「……はい。ごめんなさい、お母様。いつも心配をかけて……」
ルシアは母の胸に顔をうずめ、素直に謝罪した。横で見守るヴィオも、胸を痛めながら静かに頭を下げている。
「さあ、お立ちなさい。美味しい焼き立てのパンが届いていますわ。冷めないうちに朝食にしましょう」
セシリアは微笑むと、ルシアの手を取って席へと促した。ベルトトが手際よく温かい紅茶を注ぎ直し、湯気とともに甘く香ばしい匂いがテラスを満たしていく。
朝露に濡れる庭園の花々を眺めながら、穏やかな朝食の時間が過ぎていく。昨夜の激しい戦いや、数千キロ離れた異国の闇の中での緊張感が嘘のように、ルシアの心は温かな幸福感で満たされていた。
(いつか……もっと大きくなって、ちゃんと自分たちのやっていることを胸を張って話せる日が来たら……お母様に全部打ち明けよう)
ルシアは心の中でそう誓うのだった。




