『転生姫の遠征準備』
帝国歴 311 年 3 月。
帝都ラーナに、ようやく春の気配が満ち始めた頃。
白亜宮の大理石の床に、遮るものなく激しい足音が響き渡った。
「報告! 報告いたします!」
厳正なる朝議の場へ、土埃にまみれて飛び込んできたのは一人の伝令兵だった。鎧は泥と埃に汚れ、息は完全に
上がっている。重厚な衣服に身を包んだ貴族たちが一斉に眉をひそめ、ざわめきが波のように広がった。
玉座に深く腰掛けていた皇帝アラリックは、彫刻のように微動だにしない。だが、その鋭い眼光が伝令兵を捉えた
瞬間、宣政殿せんせいでんは氷を投げ込まれたかのように静まり返った。
「……発言を許す。語れ」
重々しい皇帝の声が、高い天井に反響する。
伝令兵は床に両膝を突き、むせび泣くような声を絞り出した。
「我が国の朝貢国である燕国が……ジルグード率いるオテゲン残党 5 万の大襲撃を受け、わずか三日の攻防の
末に、首都・鳳山が陥落いたしました!」
「なっ……!」
「馬鹿な! たった三日で落ちたというのか!」
平穏を貪っていた大臣たちの顔から、一斉に血の気が引いた。燕国はオーレリアに毎年莫大な富を納める重要な
防波堤であり、東の要衝だ。そこが落ちたということは、敵の刃がすでに国境まで迫っていることを意味する。
「燕国王家は一族もろとも捕らえられ、街は略奪に晒されております。敵はそのまま鳳山にて籠城中とのことです」
伝令兵が頭を床に擦りつける。
宣政殿はたちまち悲鳴と怒号に包まれた。貴族たちは狼狽して顔を見合わせ、保身のための醜い言い争いを始める。
しかし、玉座の皇帝だけは、ただ静かに立ち上がった。
彼が身にまとう豪奢な衣が、かすかに衣擦れの音を立てる。その一挙手一投足に、すべての視線が釘付けになった。
「静粛に」
皇帝の一言で、騒音はピタリと止んだ。
彼は怒るでもなく、怯えるでもなく、冷徹なまでの光を瞳に宿して眼下の臣下たちを見下ろした。
「貢ぎ物を運ぶ犬が、狼に噛み殺された。ただそれだけのことだ。……ヘクスハイムの兵 2 万とサンブリアの兵 2万5千で鳳山を囲めと、第一騎士団に伝えよ。直ちに燕国へ向かうのだ。第二騎士団は物資の準備を」
冷酷な皇帝としての覇気が、広い空間を支配した。臣下たちは一斉に平伏し、真の戦争の幕開けを悟るのだった。
◇
帝都ラーナから東北へ約 830 キロ。セレスティア親王イリアードにその報が伝わったのは、ほぼ同じ頃であっ
た。彼は皇帝から『黄金の獅子剣』を預かる忠臣であり、帝国最高位の軍人である。
イリアードは内海から南下すべく、陸上部隊と水軍の両方に即座に通達を出した。しかし、今回ばかりは腹心である水
鏡将軍リゼリアと水明将軍セシリアの二人を従軍させるわけにはいかなかった。
リゼリアとの間に生まれた末娘のシンシアは、まだ生後 1 年にも満たない。そして、セシリアが戦場に赴くとなれ
ば、彼女の 5 歳になる娘・ルシアが大人しく留守番をしているはずがなかった。さすがに 5 歳の幼子を戦場に連
れて行くなど、父親として到底考えられない。さらに言えば、もしルシア付いてくるとなれば、同い年である息子
のリアムも「自分も行く」と大騒ぎするに決まっていた。
息子は父親の背中を追い、軍人になることを強く望んでいる。だが、かつては寛容で寛大だった妻のリゼリアも、母
親になってからは頑なに息子を戦場へ近づけることを嫌がった。「もしあの子を戦へ連れて行くなら、家出や離婚も
辞さない」というほどの凄まじい剣幕なのだ。
「お父様。どこかに出かけるのですか?」
執務室に遊びに来ている、可愛らしい来客は愛娘のルシアであった。抱き上げて頬擦りするも、真面目で武骨な父親は気の利いた嘘が付けなかった。
「お父様はね。お仕事で南の燕国に行く。ルシアが良い子でお留守番してくれたら、お土産たくさん買っ
てくるよ」
不器用な父親がやや声を震わせて伝えたのだが、異常なくらい賢い 5 歳児を騙すことなど到底無理かと
思われた。
「ルシアもお家に戻って準備いたしますわ!」
愛娘は出番がやってきたとばかりに、イリアードの両腕
から滑り降りると、瞬間移動であっと言う間に居なくなった。彼女の母親セシリアに叱られるのを怯えながら、
アルヴェリア親王は遠征の準備をすすめるのであった。




