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『アルストラーナ伝記』  作者: リアトト
帝国歴325年
116/152

『敗戦の影と水鏡宮』

帝都ラーナの空に、静寂を破る神秘的な光の渦が揺らめいた。

異能の空間移動――。

極彩色の光芒が収まると、そこは水鏡宮の広大な庭園の一角であった。白磁の石畳の上に降り立ったのは、皇女シンシアと巫女ココロギの二人。 ツルギとミタマの二人は、あらかじめ取り決められていた通り、シンシアたちの無事を見届けるや否や、聖都クリスタルヘイムへと続く光の門の中へと静かに姿を消していった。

「……ツルギもミタマも、無事に聖都へ戻れましたね」

ココロギはそっと胸に手を当て、安堵の吐息を漏らす。その衣には、昨夜のイメイルにおける凄惨な激闘と硝煙の匂いがかすかに残っていた。

「ええ。私たちも、急ぎお母様のもとへ向かいましょう」

シンシアは手にしていた愛用の錫杖『空斬水鏡』をそっと収めると、乱れた裾を優雅に整えた。

静まり返る水鏡宮の奥深くに位置する皇后の私室。 しんと張り詰めた空気の中、豪華な刺繍が施されたソファーに腰掛けていたのは、母であり、皇后リゼリアであった。

「……お母様。ただいま戻りましたわ」

シンシアが静かに扉を開け、ココロギとともに室内へと足を踏み入れる。

リゼリアは優美な面立ちに陰りを帯びさせながらも、ゆっくりと顔を上げた。瞳には、一徹な夜を過ごしたであろう疲労と、母としての深い憂慮が滲み出ている。

「シンシア……それにココロギ。無事に戻ったのですね。リアムはどうなったのですか?」

リゼリアの問いただす声は、かすかに震えていた。

シンシアはココロギと視線を交わすと、幾分か気まずそうに唇を噛み締め、朝帰りの言い訳を口にする。

「お母様……無断で帝都を抜け出し、お騒がせしたことはお許しください。ですが、胸騒ぎが拭えず、異能を用いてイメイルへ駆けつけずにはいられなかったのです」

そして、シンシアは息を整え、意を決したように背筋を伸びやかに正した。

「ですが、ご安心くださいませ。お兄様は無事です。怪我も負っておられず、ご健在でございます」

「……ああ、よかった……! 無事なのですね、リアム……」

リゼリアは胸に手を当て、深く大きな安堵の溜息を漏らした。愛する息子の無事を知り、その美貌に一瞬だけ安らぎの笑みが浮かぶ。

しかし、シンシアの表情は晴れないままだった。

「ですが、お母様……報告すべきはそれだけではございません。イメイルの戦況につきまして……」

シンシアは昨夜の凄絶な地獄絵図を克明に語り始めた。 暗闇に乗じた反乱軍の不意打ち、燃え上がる本陣、そして——大将軍バルドゥインと副将ハリス・ボルゲーゼの討ち死に。五万を誇った帝国軍が壊滅的な損害を受け、全滅を免れたものの、敗北撤退を余儀なくされたという残酷な事実を。

言葉を重ねるごとに、リゼリアの顔から血の気が引いていく。 息子の無事という喜びに取って代わったのは、帝国を揺るがす深刻な敗戦という重い現実であった。

「……バルドゥイン将軍も、ハリスまでもが倒れたというのですか……。五万の軍勢が敗走するとは……」

リゼリアは力なく椅子に深くもたれかかり、重苦しい溜息をついた。美しい眉間に深い皺が刻まれ、その瞳には深い落胆と苛立ちが交錯する。

「お兄様は残勢をまとめ、二ヶ月におよぶ長い撤退戦の途についておられます。私たちは敵の追撃を完全に断ち切った上で、一足先に戻ってまいりました」

静かに告げるシンシアの言葉を聞き終えたリゼリアは、やがてきりと凛とした表情を取り戻し、シンシアを厳しく見つめた。

「よく報せてくれました、シンシア。ですが……この件、陛下には、まだ伏せておかなければなりません」

「お父様に、ですか?」

「ええ。リアムからの正規の伝令と公的な報告が届く前に、私たちが私的に事態を動かすわけにはいきません。陛下がこれをお知りになれば、帝国宮廷は大混乱に陥り、リアムへの追及も免れないでしょう。正規の知らせが届くまで、シンシア、口を慎みなさい」

母の威厳に満ちた言葉に、シンシアは静かに深々と頭を下げた。

「……承知いたしました、お母様」

静まり返る水鏡宮の一室に、差し始めた朝の光が薄っすらと差し込んでいた。しかし、母娘の胸中に漂う敗戦の暗雲は、晴れることなく重く垂れ込めていた。


■ 登場人物一覧表


エミーナ・リヴィエール

セシリアの元侍女で、ルミナリア・リヴィエールの血脈を引き異能の力を持つ。

セレスティア親王軍の水明艦隊特攻隊長として数々の海戦で戦功を挙げ、「東海の鬼女」と恐れられた。後にアレスと結婚する。


アレス・マクウェン(アレス・サイリュン / 崔亜無)

15歳で志願兵として入隊後、航海長や艦隊副長を歴任し出世した優秀で勤勉な人物。

エミーナと結婚し、ツルギとミタマの父となる。教皇ゲンドラス・サイリュンの息子で、ココロギの異母兄。


ツルギ・マクウェン(ツルギ・サイリュン / 崔剣)

アレスとエミーナの息子(12歳)で、ミタマの双子の兄。男子としては珍しく異能力を発現させ、戦士としての才能を発揮している。崔厳の孫。


ミタマ・マクウェン(ミタマ・サイリュン / 崔御玉)

アレスとエミーナの娘(12歳)で、ツルギの双子の妹。リヴィエールの血を引き、12歳にして高度な水術や「新星爆発」などの技を扱う。崔厳の孫。


ルシア・フォン・セレスティア

アルヴェリア親王国王女で、「四つ葉の錫杖」を振るう圧倒的な強さを持った騎士・戦士・巫女。

戦死後、皇太子の幼い皇女「シェルランテ」として転生・復活を果たした。


ココロギ・サイリュン(崔心木)

「真理の光教団」の巫女で、後宮の礼拝堂「四つ葉堂」に住まう。教皇ゲンドラス(崔厳)の実娘。

リヴィエール一族の血を引き、「空間跳躍」や「神秘札の作成」などの異能を持つ。 


セシリア

帝国後宮の「貴妃」で、水明宮に居住するルシアの実母。古琴の名手であり、リヴィエールの血を引く気品と冷徹さを併せ持つ傑物。


シェルランテ

皇太子夫婦の間に生まれた皇孫女(中身はルシアの復活体)。「白鷺姫」と呼ばれ、宝物や巨大なマグロを出現させる能力、千里眼、空間跳躍などの異能を持つ。


イリアード

第15代皇帝で、ルシアの実父。かつて「軍神」と称されたが、現在は孫のシェルランテを溺愛している。


リゼリア

帝国の後宮最高権力者である「皇后」で、水鏡宮に座す。

冷静沈着な頭脳と高い威厳を持ち、公平に後宮を取り仕切る。


シルヴィア

春宮(白鷺宮)に住まう若き皇太子妃で、シェルランテの母。

夫の不始末に悩んでいたが、二人目の子(男児)を妊娠する。気前が良く配下の宮女たちにも優しい。


ゲンドラス・サイリュン(崔厳)

聖ゲンドラス教国の教皇で、ココロギとアレスの実父。超常的な力は持たないが、高い政治統治能力を持つ一流の政治家・亡国の元宰相であり、僭王であった。


ヴィオ

ルシアに引き取られ鍛え上げられた側近・従者で、仕込み錫杖による二刀流の使い手。

紫の儀式で憑依を受け、ルシアを刺した後にリアムに斬られ絶命した。


ビー・スー

ルシアに付き従う側近で、南部の孤島の王国末裔。

ディヌイヤ・ラーナ公国で「真理の光教団」の司教を務め、丸盾と短めの錫杖を扱う。


ヴォルフラム

「真理の光教団」の枢機卿で、エルサ・ルーメン大司教座聖堂に赴任している切れ者。元は吟遊詩人・達人の剣士。


アルル

水鏡宮(水明宮)の女官で、セシリアや皇后の伝言をココロギに伝える役割を担う。


ベルトト

皇后付き女官長を務める女性で、ベルナデットの妹。非常に優秀で「さすがベルトト」と称賛される。


リアム

皇帝イリアードと皇后リゼリアの息子の皇太子で、武芸に非常に長けている。

女官エレノアの手を出したことでココロギや妻シルヴィア、娘シェルランテからも冷遇・疎外されている。 


エレノア

リアムと関係を持った元平民出身の女官。芙蓉宮に住まい、奉儀から昭訓へ昇格・懐妊した。


■ 用語集一覧表


真理の光教団

ゲンドラス・サイリュンを教祖としてルシアが設立した宗教組織。紋章は四つ葉のクローバー。


心木(しんぎ / こころぎ)

真理の光教団の教義において、宇宙の中心にそびえ立ち全生命の魂と心を繋ぎ止める世界樹。


四つ葉のクローバー

教団や聖ゲンドラス教国、ルシアたちのシンボルで、「希望」「信仰」「愛」「幸福」を象徴する。


四つ葉の錫杖

ルシアが愛用する片手剣のように扱う片腕ほどの長さの錫杖。


神秘札しんぴふだ

ココロギが集中して創り出す札で、未来の出来事や真実が絵と文面で浮かび上がる。


六棘の霜華ろっきょくのそうか

「霜華の女王ルシア」を象徴する結晶の紋章で、義賊組織の名称でもある。


白紅百合はぐぐゆり

アルヴェリア親王家の威厳を象徴する蓮の花の刺繍・紋様(白紅はルシア、黄色はセシリア)。


リヴィエール一族 / リヴィエールの血

異国の漂流民の血を引くとされる土豪の一族。美貌と空間跳躍などの強い異能の発現が特徴。


アンチアルマ

七十万もの軍勢が激突した、古都アンチアルマ周辺の広大な戦場平原。


アルストラーナ帝国

『偉大なるラーナ人の国』。文明発祥の地とされる古都ラーナを首都とし、帝政に以降してから320年強の歴史をもつ。


グラッデェ

強靭な騎馬民族。


聖ゲンドラス教国

ゲンドラス・サイリュンを国家元首とする「真理の光教団」の国家。首都はクリスタルヘイム。


ルミナリア

「花の都」と呼ばれる都市で、セシリアの故郷・ルミナリア・リヴィエール家の本拠地。


翡翠宮ひすいきゅう

後宮の最奥にあり、皇帝イリアードが生まれた居館。


水鏡宮すいきょうきゅう

後宮最高権力者である皇后リゼリアの居館。


水明宮すいめいきゅう

貴妃セシリアの居館。


四つ葉堂よつばどう

後宮の片隅にある教団の礼拝堂で、ココロギの住まいでもある。


東宮

皇太子リアムの居館


春宮(しゅんきゅう)

皇太子妃シルヴィアの居館(別名:白鷺宮)。


芙蓉宮ふようきゅう

昭訓エレノアの住まう館で、大量のカラスが集まることから「カラス屋敷」と陰口を叩かれている。


政教商の一致

ルシアが目指した思想で、宗教(真理の光教団)・国家(セレスティア/聖ゲンドラス)・経済(リヴィエール商会)・義賊(六棘の霜華)を連動させ、世の中の歪みや貧富の差を還流・是正する仕組み。


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