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『アルストラーナ伝記』  作者: リアトト
『月の光纏いし風の妖精』帝国歴324年
109/154

『白鷺宮の転生姫と甘い悪事』

霜降りる十一月、春宮を包む空気は澄み渡り、庭園の木々が色づく季節を迎えていた。

皇女シンシアが宮殿内を練り歩き始めてから、すでに幾日が過ぎただろうか。いまや宮廷の隅々に至るまで、彼女の麗しい姿を目にしたことがない者など存在しなかった。教団の分厚い聖書を一字一句違わず丸暗記してしまうほどの才気を持つシンシアは、すれ違う宮女や宦官たちの名前はもちろん、その出身地や悲喜こもごもの生い立ちに至るまで完璧に記憶してみせ、宮中の人々を幾度となく驚嘆させていた。

そんな聡明な皇女が日課のように入り浸っているのが、皇太子妃シルヴィアと、生後十ヶ月を迎えた幼きシェルランテが暮らす春宮であった。いつの頃からか住み着いた白鷺のいる庭。宮内の人々は白鷺宮と呼んでいる。

後宮は本来、百二十人もの后妃を迎え入れられるほどに広大であったが、いま現在暮らしている后妃はわずか四名。敷地に遊ぶ「四つ葉堂」のうさぎの数よりも少ないという有様である。それもそのはず、皇帝イリアードは余計な側室を増やさぬことに無駄な情熱を注いでおり、皇太子リアムにいたっては、愛想を尽かされた妃のシルヴィアから嫌われた報いとして、ただひたすらに自重を余儀なくされていたからだ。「いつの日か彼女の怒りが解け、以前のような睦まじい関係に戻れれば……」とリアムは仄かな期待を抱いていたが、当のシルヴィアはどこ吹く風。年末には新たな命の出産を控えており、身勝手な夫を構っている余裕など微塵もなかった。

六歳の年の差こそあれど、シンシアとシルヴィアは従姉妹同士。互いに身分上の不必要な遠慮を払いにできる貴重な存在であり、いまや義理の姉妹として毎日顔を合わせても飽きることのない、穏やかで温かい友情で結ばれていた。

「おや、シンシア様。今日もお早いお着きですね」

ふっくらとお腹の大きくなったシルヴィアが、柔らかな絹のドレスの裾を揺らしながら、穏やかな笑みを浮かべて出迎える。

「シルヴィア義姉様、お体を労わらねばなりませんのに。……ええ、もちろん来ますとも。ここに私の可愛い姪がおりますから」

シンシアが愛おしそうに視線を落とした先には、すくすくと育ちすぎた姪、シェルランテの姿があった。生後十ヶ月とは思えぬその体格はあまりに立派で、幼子らしい愛くるしい足取りというよりは、まるで土俵に上がる力士のごとくドタドタと豪快に床を鳴らして歩く。そして、勢い余って誰かの足元に体当たりしては前進を終えるのだ。直撃を受けた者は、なかなかの衝撃を覚悟しなければならない。

(クリスタルロッドの『空斬水鏡』で心地よい向かい風でも送って立ち止めさせてみようかしら……)

一瞬そんな悪戯心が頭をよぎるシンシアであったが、すぐさま首を横に振った。もしも不機嫌にさせてしまえば、白亜宮全体を吹き飛ばしかねない絶大な異能を秘めた幼子である。下手に冷やかすわけにはいかなかった。

シェルランテがこれほどまでに重量感を増している原因は、明確であった。ココロギの作った特製の牛乳飴の食べ過ぎである。

「シェルランテ、また飴を口に含んでいますね? 妊婦のシルヴィア義姉様があなたを抱き上げたら、そのまま流産してしまいますよ」

シンシアが少し眉をひそめて諭すと、シェルランテは一瞬だけ丸い目をかっと見開き、罪悪感に満ちた表情でうつむいた。本人なりに食べ過ぎを後悔し、反省はしているようである。……しかし、その手はしっかりと次の飴の包みを握りしめて離さない。幼き欲望の魅力には勝てないようだった。

それもそのはず、仕掛け人であるココロギが悪びれもせず、どこか意地悪で楽しげな笑みを浮かべて新商品を差し出してくるのだから。

「ふふ、シンシア様。本日は新たに『イチゴミルク味』と『オレンジミルク味』をご用意いたしましたよ。幼少期の味覚の発達には、多彩な刺激が必要でございますから」

甘い香りを漂わせる色鮮やかな飴を前に、シェルランテの瞳がキラキラと輝きを取り戻す。

「まあ……ココロギったら、本当に悪いお方」

クスクスと胸を揺らして笑うシンシアは、甘い誘惑で幼子を翻弄するココロギの姿を観察しながら、脳内で静かに妄想を膨らませていた。

(ふふ……題して『邪悪な司祭の恐ろしい悪事』。甘い毒飴で幼き姫君を骨抜きにし、宮殿を裏から支配しようと企む暗黒の物語……うん、なかなか面白い筋書きになりそうだわ)

初冬の柔らかな陽光が射し込む春宮。小さな嵐のような姪の足音と、穏やかな妊婦の微笑み、そして邪悪な巫女の甘い企みが交錯するその部屋は、寒さを忘れるほどの温もりと賑やかさに満ちあふれていた。



■ 登場人物一覧表


エミーナ・リヴィエール

セシリアの元侍女で、ルミナリア・リヴィエールの血脈を引き異能の力を持つ。

セレスティア親王軍の水明艦隊特攻隊長として数々の海戦で戦功を挙げ、「東海の鬼女」と恐れられた。後にアレスと結婚する。


アレス・マクウェン(アレス・サイリュン / 崔亜無)

15歳で志願兵として入隊後、航海長や艦隊副長を歴任し出世した優秀で勤勉な人物。

エミーナと結婚し、ツルギとミタマの父となる。教皇ゲンドラス・サイリュンの息子で、ココロギの異母兄。


ツルギ・マクウェン(ツルギ・サイリュン / 崔剣)

アレスとエミーナの息子(12歳)で、ミタマの双子の兄。男子としては珍しく異能力を発現させ、戦士としての才能を発揮している。崔厳の孫。


ミタマ・マクウェン(ミタマ・サイリュン / 崔御玉)

アレスとエミーナの娘(12歳)で、ツルギの双子の妹。リヴィエールの血を引き、12歳にして高度な水術や「新星爆発」などの技を扱う。崔厳の孫。


ルシア・フォン・セレスティア

アルヴェリア親王国王女で、「四つ葉の錫杖」を振るう圧倒的な強さを持った騎士・戦士・巫女。

戦死後、皇太子の幼い皇女「シェルランテ」として転生・復活を果たした。


ココロギ・サイリュン(崔心木)

「真理の光教団」の巫女で、後宮の礼拝堂「四つ葉堂」に住まう。教皇ゲンドラス(崔厳)の実娘。

リヴィエール一族の血を引き、「空間跳躍」や「神秘札の作成」などの異能を持つ。 


セシリア

帝国後宮の「貴妃」で、水明宮に居住するルシアの実母。古琴の名手であり、リヴィエールの血を引く気品と冷徹さを併せ持つ傑物。


シェルランテ

皇太子夫婦の間に生まれた皇孫女(中身はルシアの復活体)。「白鷺姫」と呼ばれ、宝物や巨大なマグロを出現させる能力、千里眼、空間跳躍などの異能を持つ。


イリアード

第15代皇帝で、ルシアの実父。かつて「軍神」と称されたが、現在は孫のシェルランテを溺愛している。


リゼリア

帝国の後宮最高権力者である「皇后」で、水鏡宮に座す。

冷静沈着な頭脳と高い威厳を持ち、公平に後宮を取り仕切る。


シルヴィア

春宮(白鷺宮)に住まう若き皇太子妃で、シェルランテの母。

夫の不始末に悩んでいたが、二人目の子(男児)を妊娠する。気前が良く配下の宮女たちにも優しい。


ゲンドラス・サイリュン(崔厳)

聖ゲンドラス教国の教皇で、ココロギとアレスの実父。超常的な力は持たないが、高い政治統治能力を持つ一流の政治家・亡国の元宰相であり、僭王であった。


ヴィオ

ルシアに引き取られ鍛え上げられた側近・従者で、仕込み錫杖による二刀流の使い手。

紫の儀式で憑依を受け、ルシアを刺した後にリアムに斬られ絶命した。


ビー・スー

ルシアに付き従う側近で、南部の孤島の王国末裔。

ディヌイヤ・ラーナ公国で「真理の光教団」の司教を務め、丸盾と短めの錫杖を扱う。


ヴォルフラム

「真理の光教団」の枢機卿で、エルサ・ルーメン大司教座聖堂に赴任している切れ者。元は吟遊詩人・達人の剣士。


アルル

水鏡宮(水明宮)の女官で、セシリアや皇后の伝言をココロギに伝える役割を担う。


ベルトト

皇后付き女官長を務める女性で、ベルナデットの妹。非常に優秀で「さすがベルトト」と称賛される。


リアム

皇帝イリアードと皇后リゼリアの息子の皇太子で、武芸に非常に長けている。

女官エレノアの手を出したことでココロギや妻シルヴィア、娘シェルランテからも冷遇・疎外されている。 


エレノア

リアムと関係を持った元平民出身の女官。芙蓉宮に住まい、奉儀から昭訓へ昇格・懐妊した。


■ 用語集一覧表


真理の光教団

ゲンドラス・サイリュンを教祖としてルシアが設立した宗教組織。紋章は四つ葉のクローバー。


心木(しんぎ / こころぎ)

真理の光教団の教義において、宇宙の中心にそびえ立ち全生命の魂と心を繋ぎ止める世界樹。


四つ葉のクローバー

教団や聖ゲンドラス教国、ルシアたちのシンボルで、「希望」「信仰」「愛」「幸福」を象徴する。


四つ葉の錫杖

ルシアが愛用する片手剣のように扱う片腕ほどの長さの錫杖。


神秘札しんぴふだ

ココロギが集中して創り出す札で、未来の出来事や真実が絵と文面で浮かび上がる。


六棘の霜華ろっきょくのそうか

「霜華の女王ルシア」を象徴する結晶の紋章で、義賊組織の名称でもある。


白紅百合はぐぐゆり

アルヴェリア親王家の威厳を象徴する蓮の花の刺繍・紋様(白紅はルシア、黄色はセシリア)。


リヴィエール一族 / リヴィエールの血

異国の漂流民の血を引くとされる土豪の一族。美貌と空間跳躍などの強い異能の発現が特徴。


アンチアルマ

七十万もの軍勢が激突した、古都アンチアルマ周辺の広大な戦場平原。


アルストラーナ帝国

『偉大なるラーナ人の国』。文明発祥の地とされる古都ラーナを首都とし、帝政に以降してから320年強の歴史をもつ。


グラッデェ

強靭な騎馬民族。


聖ゲンドラス教国

ゲンドラス・サイリュンを国家元首とする「真理の光教団」の国家。首都はクリスタルヘイム。


ルミナリア

「花の都」と呼ばれる都市で、セシリアの故郷・ルミナリア・リヴィエール家の本拠地。


翡翠宮ひすいきゅう

後宮の最奥にあり、皇帝イリアードが生まれた居館。


水鏡宮すいきょうきゅう

後宮最高権力者である皇后リゼリアの居館。


水明宮すいめいきゅう

貴妃セシリアの居館。


四つ葉堂よつばどう

後宮の片隅にある教団の礼拝堂で、ココロギの住まいでもある。


東宮

皇太子リアムの居館


春宮(しゅんきゅう)

皇太子妃シルヴィアの居館(別名:白鷺宮)。


芙蓉宮ふようきゅう

昭訓エレノアの住まう館で、大量のカラスが集まることから「カラス屋敷」と陰口を叩かれている。


政教商の一致

ルシアが目指した思想で、宗教(真理の光教団)・国家(セレスティア/聖ゲンドラス)・経済(リヴィエール商会)・義賊(六棘の霜華)を連動させ、世の中の歪みや貧富の差を還流・是正する仕組み。


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