サイレント・ゲーム
あの無機質な殺気を感知して以来、相沢祐樹の纏う空気は目に見えて変わっていた。
ノアと過ごす時間に見せる穏やかな表情の裏で、彼の五感は常に周囲の空間をスキャンし、あらゆる脅威の可能性を探っている。
それは、アビスの最深部で、いつどこから襲い来るか分からない敵意に囲まれていた頃の、研ぎ澄まされた緊張感だった。
アパートに帰るなり、祐樹はカラスに連絡を入れた。
YUKI: 『雑踏で、男の気配を感じた。特徴を伝える』
祐樹は、一瞬だけ捉えた男のシルエット、身長、体重、そして何より、彼が放っていた殺気の“質”を、的確な言葉でカラスに送信した。それは、もはや超能力の域に達するほどの、鋭敏な観察眼だった。
数分後、カラスから返信が来る。その反応は、かつてないほど素早かった。
CROW: 『……ビンゴだ。お前が遭遇したのは、ほぼ間違いなくこの男だ』
添付されてきたデータを開くと、一人の男の顔写真が表示された。短く刈り込んだ髪、彫りの深い顔立ち、そして感情というものが一切抜け落ちたような、氷のような瞳。
コードネーム:サイレント
本名、国籍、年齢、全て不明。元米陸軍特殊作戦コマンド『デルタフォース』所属とされ、現在は非合法活動を主とするPMC(民間軍事会社)『グレイ・ゴースト』のトップエージェントとして活動。成功率100%。失敗した任務は、一つもない。
CROW: 『気をつけろよ、“名無し”。こいつは戦争のプロだ。お前がこれまで相手にしてきたアビスの獣共とは、戦い方のOSが違う。奴は、目的のためなら周囲の人間を巻き込むことも、事故に見せかけて全てを破壊することも、一切躊躇しない』
YUKI: 『……承知した』
祐樹はデータを閉じ、静かに目を閉じた。
厄介なことになった。
これまでの敵ならば、麗奈本人に気づかれずに処理することができた。
だが、今度の相手は違う。
奴はこちらの存在をいずれ察知する。
そうなればこの静かな学園が戦場になりかねない。
その頃、都内の高級ホテルの一室でその男――サイレントは、タブレット端末に表示された聖マリアンヌ女学院の構内図を、無感情な目で見つめていた。
部屋には彼以外に誰もいない。
酒も、煙草も、音楽もない。
ただ、任務を遂行するための情報と、完璧に整備された機材があるだけだ。
彼の分析は、すでに最終段階に入っていた。
対象、西園寺麗奈の行動パターン、移動ルート、交友関係。
学園の警備体制、監視カメラの配置、警備員の交代時間。
全てインプット済みだ。
(警備はザル。プロの護衛がついている様子もない)
サイレントは、そう結論付けた。
だが、彼は決して油断しない。
(しかし、気になる点が二つ)
一つは、先日起こった不良グループの壊滅事件。
警察は内輪揉めと結論付けたが、被害者の負傷箇所があまりに的確すぎる。
素人の喧嘩ではない。
人体の急所を完璧に把握した、プロの手際だ。
もう一つは、その前にあったチンピラ撃退事件。
配電盤のショート、マンホールのずれ。
偶然にしては、出来すぎている。
(……“鼠”が一匹、紛れ込んでいる可能性があるな)
サイレントは、麗奈の周囲に正体不明の護衛がいる可能性を考慮に入れた。
だが、それも問題ではない。
鼠は、鼠らしく、罠にかければいい。
彼は、最も効率的で、かつ、自身の存在を悟られにくい計画を選択した。
「プランCを実行する」
彼は誰に言うでもなく呟くと、手際良く機材をケースに収め始めた。
翌日。
聖マリアンヌ女学院は、年に一度の音楽コンクールの準備で、どこか浮き足立った空気に包まれていた。
麗奈は、ピアノ部門の最有力優勝候補だった。
放課後、彼女は一人で防音設備の整った第一音楽室に残り、最後の調整を行うのが日課となっていた。
祐樹は、その日、校内の空調設備の点検を行っていた。
用務員の仕事として、ごく自然な業務だ。
だが、彼の真の目的は、サイレントが仕掛けたかもしれない“罠”を探し出すことだった。
しかし、何も見つからない。
不審な人物も、不審物もどこにもない。
(俺の考えすぎか……? いや、違う)
あの殺気の主が何もしないはずがない。
祐樹は、焦りを抑え、思考を切り替えた。
(もし俺が奴なら、どこを狙う? 最も事故に見せかけやすく、対象を確実に仕留められる場所……)
その時、彼の脳裏に、一つの場所が浮かんだ。
第一音楽室。
あそこのグランドピアノは、コンクールのために専門の業者が運び込んだ最高級品で、普段は天井からワイヤーで吊るされ保管されている。
祐樹は、他の職員の目を盗み、音楽室の天井裏へと続く点検口に姿を消した。
薄暗い天井裏。
埃っぽい空気の中、祐樹は懐中電灯の光を頼りに、巨大なグランドピアノを吊り上げているウィンチと、極太のワイヤーを点検する。
一見、何も異常はない。
だが、祐樹の目は、ワイヤーを固定しているフックの根元に、髪の毛よりも細い、金属疲労を誘発させるための傷が、意図的につけられているのを見逃さなかった。
さらに、ウィンチの制御ボックスを開けると、本来あるはずのない、小さなリモート受信機が取り付けられていた。
遠隔操作でウィンチを誤作動させ、フックに負荷をかけることでワイヤーを切断させる罠。
(……ここか!)
祐樹が罠に気づいた、その時だった。
階下から、音楽室の扉が開く音がした。
西園寺麗奈が入ってきたのだ。
彼女は、何も知らずに、ピアノが吊るされたステージの真下まで歩いていく。
そして、壁のスイッチを操作し、ピアノをゆっくりと降ろし始めた。
(……まずい!)
罠は、ピアノを降ろす時の負荷で、ワイヤーが断裂するように設計されている!
遠く離れた、学園を見下ろせる廃ビルの屋上。
サイレントは、ライフルのスコープを覗き、音楽室の窓から見える光景を監視していた。
彼の指は、ウィンチを暴走させるための起爆スイッチに置かれている。
(チェックメイトだ、鼠)
彼は、まだ見ぬ“護衛”の存在を嘲笑うかのように、静かに呟いた。
天井裏の祐樹に、選択の時間はなかった。
ここから飛び降りて麗奈を突き飛ばせば、助けることはできる。
だが、それでは自分の正体がバレてしまう。
「見えない護衛」という契約は、そこで破綻する。
(……手段は、一つ)
祐樹は、天井裏の壁に設置されていた、火災報知器の押しボタンに目をつけた。
麗奈が、降りてくるピアノに手をかけようとした、その瞬間。
――ジリリリリリリリリリリリリッ!!
学園中に、けたたましいベルの音が鳴り響いた。
「きゃっ!?」
突然の警報に麗奈が驚いて飛び上がる。
直後、天井のスプリンクラーが作動し、滝のような水が音楽室に降り注いだ。
「な、何なの!?」
ずぶ濡れになった麗奈は、パニックになり慌てて音楽室の扉へと駆け出す。
彼女が、ピアノの真下から完全に離れた、そのコンマ数秒後。
――ギィンッ、バツンッ!!
金属の断末魔のような音が響き、極太のワイヤーが切れた。
数トンの重さを持つグランドピアノが、ステージめがけて自由落下する。
――ゴシャアアアアアアアンッ!!
凄まじい破壊音と共に、ピアノは木っ端微塵に砕け散り、その破片がステージ上に散乱した。
もし、あと一秒でも麗奈がそこにいたら即死は免れなかっただろう。
廃ビルの屋上。
サイレントは、スコープの中で起きた光景に、初めて眉をひそめた。
火災報知器? スプリンクラー?
偶然か?
いや、違う。タイミングが、完璧すぎる。
まるで、こちらの計画を全て見抜いていたかのような、妨害工作。
「……なるほど」
サイレントの口元に、初めて人間らしい感情の色が浮かんだ。
それは、獲物を見つけた狩人の獰猛な笑みだった。
「ただの鼠ではないらしい。面白い」
彼は、初めて明確に“敵”の存在を認識した。
ずぶ濡れのまま、廊下に呆然と立ち尽くす麗奈。
天井裏で、静かに息を潜める祐樹。
そして、遠く離れた場所で、新たなゲームの始まりを確信する、サイレント。
互いの顔も知らぬまま、三人のプレイヤーによる、命を賭けたチェスが今、静かに始まった。




