狩人の視線
グランドピアノの落下事故は、聖マリアンヌ女学院を再びパニックの渦に叩き込んだ。
前回とは比較にならないほど大規模な警察の捜査が入り、学園は一時休校措置が取られる事態にまで発展した。
事情聴取を受けた西園寺麗奈は、ただ呆然と「火災報知器が鳴って、外に出たらピアノが落ちてきた」と繰り返すことしかできなかった。
彼女自身、何が起きたのか全く理解できていないのだ。
捜査の結果は「ワイヤーの経年劣化による、痛ましい事故」。
天井裏から見つかった、祐樹が仕掛けた偽の火災報知器の発信源は特定できず、誰かが意図的にベルを鳴らしたという証拠も見つからなかった。
全てが、奇跡的な偶然の産物として片付けられた。
麗奈は、命を救われた。
それは事実だ。
だが、彼女の心は安堵ではなく、底知れぬ恐怖に支配されていた。
不良やチンピラとは違う。
今度の“敵”は、自分の命を明確に、そして冷徹に奪いに来ている。
そして、“守護者”は、またしても奇跡のような偶然を装って自分を救った。
(……あなたは、一体誰なの)
麗奈は、自室のベッドの上で、誰に問いかけるでもなく呟いた。
守られているはずなのに、まるで巨大で危険な何かの渦の中心にいるような感覚。
彼女の日常は、もはやどこにも存在しなかった。
◇
その日の夜。祐樹のアパートではいつもと違う空気が流れていた。
「ミナ、今日の晩ごはん、味うすい」
テーブルの向かい側で、ノアが不満そうに箸を突き刺しながら言った。
「……そうか」
祐樹は、上の空で返事をする。
彼の意識は、目の前の食事にはなかった。
サイレント。
あの男の存在が、彼の思考の大部分を占めている。
火災報知器のトリックは、今回は成功した。
だが、同じ手は二度と通じない。
相手は、こちらの介入を明確に認識したはずだ。
次は、もっと直接的な罠を仕掛けてくるだろう。
(守るだけでは、ジリ貧になる)
祐樹は、初めて反撃の必要性を感じていた。
だが、どうやって?
相手の素性も、潜伏先も分からない。
カラスの情報網をもってしても、PMCのトップエージェントの足取りを掴むのは至難の業だ。
その時、ノアが箸を置くとじっと祐樹の顔を見つめた。
「ミナ、なんか変な匂いがする」
「匂い?」
「うん。ミナの周りに、まとわりついてる。アビスにいた頃の、嫌な匂い。獲物を狙う、蛇みたいな……冷たくて、しつこい匂い」
祐樹は、ノアの言葉に目を見張った。
獣の嗅覚。野生の勘。
ノアは、祐樹自身が気づかぬうちに纏ってしまった、サイレントの“匂い”を、その本能で感じ取っていたのだ。
「……そうか」
祐樹は、初めてノアに向かって、弱々しく笑ってみせた。
「お前は、本当に鼻が利くな」
「でしょ!」
ノアは、褒められたと思って嬉しそうに笑う。
だが、祐樹の心は決まっていた。
この少女の野生の力を、正しく使えば、あるいは……。
◇
一方、都内。
サイレントは、潜伏先を変えていた。
ホテルではない。
何の変哲もない、ウィークリーマンションの一室。
彼は、そこで静かに自らの敗因を分析していた。
計画は完璧だった。
だが、敵はそれを上回ってきた。
(火災報知器……。偶然ではない。あれは、意図的に作られたノイズだ)
敵は、自分の存在に気づいていないまでも、何らかの脅威を察知し、対象を“動かす”ことで危機を回避させた。
それは、対象を直接守るのではなく、危険そのものから遠ざける、非常に高度な護衛術だ。
(敵は、姿を見せない。ならば、こちらから姿を現させるまでだ)
サイレントは、新たなプランを構築し始めていた。
次のターゲットは、西園寺麗奈ではない。
彼女の、最も近くにいる人間。
彼女が、自らの危険を顧みずにでも、助けようとするであろう、駒。
標的:小倉 美咲
サイレントの端末に、麗奈の親友である少女のデータが表示される。
彼は、最もシンプルで、最も効果的な罠を仕掛けることにした。
◇
数日後。
学園は、厳戒態勢ながらも授業を再開した。
麗奈の周囲には、祖父である剛三が手配した、SPさながらの屈強な護衛が、数人つくようになっていた。
だが、麗奈は知っていた。
この人たちでは、“本当の脅威”からは守ってもらえないことを。
その日の放課後。
麗奈は、美咲と一緒に下校していた。
護衛たちは、少し離れた場所から二人を見守っている。
「大変だったね、麗奈様……」
「あなたこそ、心配をかけてごめんなさい」
二人が、いつもの並木道に差し掛かった時だった。
一台の黒いバンが、猛スピードで歩道に乗り上げてきた。
「「きゃあっ!」」
悲鳴を上げる間もなく、バンは二人のすぐ側で急停車する。
スライドドアが開き、中から目出し帽を被った男たちが二人飛び出してきた。
護衛たちが、即座に反応する。
「お嬢様から離れろ!」
だが、男たちの方が一枚上手だった。
一人が、護衛たちの足元に閃光弾を投げつける。
「ぐっ……!」
強烈な光と音に、屈強な護衛たちも一瞬、動きが止まる。
その隙に、もう一人の男が狙いを定めた。
麗奈ではなく――その隣にいた、美咲の腕を掴む。
「いやっ!」
美咲は、抵抗する間もなく、赤子のように軽々とバンの中に引きずり込まれた。
「美咲さん!」
麗奈が叫ぶ。
だが、無情にもスライドドアは閉まり、バンはタイヤを軋ませて急発進した。
あまりに一瞬の、プロの犯行だった。
護衛の一人が、すぐさま無線で応援を要請する。
「クソッ! 車のナンバーは!?」
「偽造だ! 追え!」
護衛たちが、車に乗り込み追跡を開始する。
だが、麗奈は、その場から動けなかった。
(また……また、私のせいで……!)
敵の狙いは、明らかに自分だ。
自分を誘い出すための、人質。
彼女は、唇を強く噛みしめた。
その時、どこからか吹いた風が、彼女の耳元で囁いたような気がした。
――大丈夫だ。
麗奈は、ハッと顔を上げた。
周囲には、誰もいない。
ただ、夕暮れの風が、木の葉を揺らしているだけ。
だが、彼女は確かに感じていた。
“守護者”が、すぐ近くにいることを。
◇
その頃、相沢祐樹は、学園の屋上で、その全てを見ていた。
彼は、双眼鏡を静かに下ろすと、ポケットからスマートフォンを取り出した。
そして、待機させていた人物に、たった一言だけメッセージを送る。
『――狩りの時間だ、ノア』
メッセージを受け取ったノアは、祐樹が指定した廃ビルの屋上で、まるでスタートの合図を待つ猟犬のように、その体を震わせた。
彼女の目は、獲物である黒いバンの姿を遥か彼方に捉えている。
「……やっと、遊べる」
少女は獣のように笑うと、ビルとビルの間を人間離れした跳躍力で飛び移り、追跡を開始した。
サイレントの罠が、ついに作動した。
だが、彼が誘い出そうとした“鼠”は、一匹ではなかった。
静かなる亡霊と、野生の猟犬。
二つの影が、今、獲物を狩るために、東京の闇を駆け抜けようとしていた。




