第六章 : 赤の世界
目が覚めた時、世界は妙に静かだった。
窓の隙間から差し込む光が、いつもよりやけに白くて、眩しかった。
外はまだ昼前のようだ。けれど、鳥の声も、人の声もしない。
掛け布団を押しのけるようにして起き上がる。首を傾けた拍子に、右目の奥に鈍い重みを感じた。
「……っ」
鈍く、熱を持ったような疼き。
何かが嵌まっている、という異物感がまだ残っていた。
そっと指先で右目をなぞる。皮膚はあっても、自分のものじゃないような気がした。
額に浮いた汗を拭い、重たい身体を引きずって洗面所へ向かった。
蛇口をひねり、冷たい水を何度も顔に浴びせる。
手のひらを滑り落ちる水音が、妙に大きく響く。
ふと顔を上げて、鏡を見た。
そこにいたのは、見慣れたようで、どこか違う自分だった。
顔は、十九にしては子供っぽい。
どこに行っても年下に見られるのが地味に悩みで、それを気にして髪型を整えても、どうにもならなかった。
目は大きく、目尻がきゅっと吊り上がっている。
昔から「猫みたいだね」と言われてきた。
髪は暗い焦げ茶で、ふんわりとした猫毛。癖っ毛で、乾かした直後は整っていても、数分で所々がはねてくる。
痩せ型で、身長はたぶん平均的。目立つこともなければ、隠れることもできない、そういう体格だ。
でも、今は違った。
――右目。
そこに宿っていたのは、明らかに“自分のものではない”色だった。
赤い。
焦げ茶の左目と並ぶと、その異物感は否応なく際立つ。
けれど不思議なことに、これを見ても母は、何も言わなかった。
たぶん、他人には普通の色に見えているのだろう。
自分だけが、“変わってしまった”と知っている。
洗面所から戻り、自室の布団の端に腰を下ろす。
部屋は、変わらない。
見慣れた壁。少し古びた本棚。机の上には冷めきった白湯と、
きちんと折られた、真っ白な手拭い。
母が用意してくれたのだろう。
目を伏せたまま、俺はそっと手拭いを取って額を拭った。
優しい人だ。俺みたいな息子にも、ずっと変わらずそうしてくれる。
ふと、机の上に置かれた一枚の紙片に気がついた。
小さな半紙に、毛筆で一言だけ。
──『今宵 事務所にて待つ』
墨は黒々としていて、筆の起筆と止めの運びが異様に美しい。
なんとなく、百目の筆跡とわかる。癖のある、けれど凛とした字だ。
何も飾らず、それだけしか書かれていない。
けれど、ひと目見ただけで、これは“本当に向き合う時が来た”のだと、胸の奥が告げていた。
文字を視ただけで、体の奥に何かが点火するような感覚があった。
――行かなくては。
そう思うよりも先に、身体が勝手に動いていた。
上着を羽織り、ポケットに小銭を放り込む。履き慣れた靴を引っ掛けて、玄関を出た。
──世界が、違って見える。
外に出た瞬間、まず感じたのは、音の濁りだった。
人の話し声、車のエンジン音、犬の遠吠え。全部が“ひとつ先の膜”を通して聞こえてくる。
視界も、明らかに異常だった。
色が濃い。輪郭が溶け出すように、光が滲んでいる。
中でも赤だけが、異様に生々しかった。
花壇のチューリップは、ただ咲いているのではない。
揺れていた。まるで、燃えたがっているように。
横を通りすぎた少女のランドセルの赤が、目に突き刺さって残像になる。まるで、どこかに火の粉がついているかのようだった。
建物の輪郭がわずかに歪み、視線を動かすたびに微細な光の尾が残る。
人の影が、二重に視える。
見えない“何か”が、ほんの一瞬、誰かの背後で瞬いている気がする。
角を曲がると、電柱の影が一瞬だけ人の形に見えた。
振り返ったが、誰もいない。
鼓動がひとつ、大きく鳴る。
……これが、“視る”ってことなんだろうか。
怖い。
怖くてたまらない。
けれど、それでも目を逸らしたくないと思ったのは、きっと俺の“弱さ”じゃなく、“変わりたい”っていう気持ちの証拠だ。
視えなかったから、助けられなかった。
だったら──
今度は視えているうちに、行かなきゃならない。
ポケットの中で、小銭がちゃり、と鳴った。
妙に心細い音だった。
俺は普通だ。人より特別なわけでも、強いわけでもない。
ただ――一度視てしまったからには、もう知らないふりはできなかった。
そうして、俺は雑司が谷の坂を下りていく。
目的地は、地図にない探偵事務所。
百目が待っている、あの場所だ。
人の波の中を歩くたびに、右目が軋むように疼く。
視界の端がちらちらと滲んで、街並みの輪郭が微かに揺れていた。
信号待ちの間、ふと視線を向けた向かいの人混みの中で、誰かの背中が一瞬だけ赤く染まって視えた。
目を凝らす間もなく、それは消えていた。
幻だったのかもしれない。けれど、俺は――視えてしまった。
見間違いじゃない。もう、そう思い込むこともできない。
これが“視る”ということなら、俺はこれから、何度も“視えすぎる”のだろう。
坂を下りきると、周囲の空気がわずかに変わった。
風が止む。音がすうっと遠ざかっていく。
雑司が谷の奥、誰も通らない路地裏。そこに、探偵事務所はあった。
人通りのないはずの道で、猫が一匹、立ち止まって俺を見ていた。
目が合った気がしたが、それがどちらの目か、自分でももうわからない。
建物は相変わらず古びていて、看板も何も出ていない。
それでも俺の足は、迷わずその扉の前で止まった。
ノブに手をかける。指先が微かに震えていた。
深呼吸ひとつ。
──視えるようになったのだから、今度は“聞かなきゃ”ならない。
足は迷わない。けれど、心は揺れていた。
視えるようになってしまった今、もう“帰り道”はないのだから。
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