第七章 : 燃え残る-名残火-
――その布は、もう燃え尽きていたはずだった。
なのに、まだ揺れている。
人の背中で、感情の裏で、何かを焼こうとしている。
赤い糸のように細くなった“火”が、まるで生きているかのように、
静かに、次の燃え殻を探していた。
──なぜ、それが百目の背に見えたのか。
視える目を手に入れてから、俺は“火”の匂いが分かるようになった。
それは煙じゃなくて、感情の焦げる匂い。
誰かが心の奥で焦がした何かの、残り火。
十時を追っていたはずなのに。
なのに、次に燃えそうなのは──
……百目さん、あなたなのか?
探偵事務所の戸を開けた瞬間、微かに墨と香の匂いがした。
外の世界とは切り離されたような空間。
誰もいないのに、誰かがずっと此処にいるような、妙な静けさがあった。
風の通りも、街の音も、玄関をくぐった瞬間に遠のいた気がした。
扉を閉めたとたん、世界が一枚、薄い紙で隔てられたように感じた。
「おう、お帰り、純壱ちゃん」
百目の声が聞こえたのは、奥の間からだった。
その声はいつもよりも低く、響きがやけに染みる。
入ってすぐ、真新しい柔らかい畳が足を受け止める。
ふわりと沈む感触に、緊張していた足先が少しだけ和らいだ。
けれど、緩んだのはそれだけだった。
右目の奥はまだ重たく、鈍い痛みが脈を打っている。
部屋の奥に進むと、百目がちゃぶ台の前に胡座をかいていた。
その姿は相変わらず気だるげで、けれど不思議と“そこに在る”ことに説得力があった。
その手元には、黒く光る小皿と煙草。白い煙が静かに揺れている。
その煙は、空間の静けさを縫うようにして、ゆるやかに昇っていった。
「ちゃんと辿り着いたようだな。……視える目で、“世界”は見違えたかい?」
そう言う百目の目が、じっと俺を射抜いている。
ただの挨拶じゃない。ちゃんと“確かめる”目だった。
俺はその視線から目を逸らさないようにしながら、小さく笑った。
「ええ……いろいろ、視えました。多分――必要以上に、ですけど」
苦笑まじりに返すと、百目は「だろうな」と静かに頷き、煙草の灰を灰皿に落とした。
その仕草すら、妙にゆっくりと見えた。
「お前さんにやった“目”は、ただの“器官”じゃない。それは、“視たいもの”を視る目だ。だから、“何が視えるか”は私じゃなく……お前さん自身で決まる」
目の前に座る百目の声音には、いつもとは違う熱があった。
胡乱で、皮肉っぽくて、どうでもいいようなことしか言わないと思っていたけれど。
今は違った。百目は本気で俺を“視て”いた。
「……俺が?」
つぶやいた声は、我ながら頼りなかった。
けれど、そう訊くしかなかった。あの目で見えるものが、あまりに“人のものではない”から。
「そう。お前は、何を“視たい”と思った? その右目には、“何色”が強く映る?」
問われて、少しだけ呼吸が詰まった。
けれど、答えは、決まっていた。
ずっと、あの瞬間から、変わらずにあった。
「……赤。俺は、誰かが燃える前に、気づける目がほしかった。もう、何も“見逃したくない”んです」
言葉にしてしまったら、すこしだけ楽になった気がした。
けれどその分、胸の奥に熱が灯る。視るという行為が、また俺を焼こうとしていた。
百目は、ふっと目を細める。
けれど、その瞳は優しかった。目を細めるというよりも、どこか悲しそうだった。
「その覚悟が、お前の目に“火”を宿したようだ。だから、お前さんの右目は“怒り”、“哀しみ”、“憎しみ”──燃え残った想いの火種ってやつを拾いやすいんだろうな」
指先で、俺の右目の縁をなぞるように示す。
その仕草には悪意はなかったが、妙にぞくりとした感触が残った。
「赤か……火鼠の衣に意識を向けすぎたんだ。だから“火”ばかり、視えるようになっちまった」
「それって……」
言いかけた言葉に、百目は重ねるように続ける。
「視えてしまったからには、受け止めるしかないさ。だが、焼かれないように気を付けることだ。火ってのは、それを間近で視ている奴が、一番よく燃えるんだからな」
冗談のように言ったのに、笑いはなかった。
部屋の中にふわりと立ち込める煙のように、その言葉はいつまでも胸の奥に残った。
しばらくの沈黙のあと、百目が立ち上がりながら言った。
「──さて、と。話はここまでだ。純壱ちゃん、お前さんには大学に戻って“十時”という男について調べてきてほしい」
「大学に……?」
「護衛には鎌鼬を付けよう。私より、アイツの見た目の方が馴染みやすいだろう」
そのとき、襖がするりと開いた。
白い軍服を身にまとった鎌鼬が、こちらにひらひらと手を振りながら入ってくる。
その手には、すでに何枚かの名簿と書類が握られていた。
「了解。僕は準備万端だよ。調査っていうのは、足で稼がないとね。情報は街中に落ちてるもんさ」
そう言いながら、鎌鼬は事務所の引き戸を開けて、外に出る。
そして、通りがかった女子学生に声をかける姿が見えた。
……はたして護衛になるのか、甚だ怪しい。
けれど、十時を追うには行くしかない。
俺はゆっくりと、探偵事務所をあとにした。
――大学に戻るのは、少しだけ足が重たかった。
何事もなかったように過ぎていく日常のなかに、自分だけが“異質な何か”を視ている。
通い慣れた道が、少しだけ遠く見えた。
「さて、と。僕はあっちの棟を回ってくるよ。教授連中にも話を聞いておかないとね。純壱くんは学生の方を探ってくれ。……特に、十時って子の交友関係だ」
隣を歩く鎌鼬は、いつの間にか白衣に着替えていた。
それでも軍帽は被ったままで、どう考えても目立つ。だが、不思議と誰も気にしていない。
“視られない存在”のような佇まいだった。
「わかりました。気をつけて」
「はっは、君こそ。そうだ、ひとつ注意点がある」
「……はい?」
鎌鼬は目を細めて、人混みの向こうをちらりと見た。
「十時は、腹の中が読めない男だと君は言っていたけど。そういう奴ほど……感情《想い》ってのを重く抱え込むもんだ。視えるからって、油断しないように。いいね?」
その言葉が妙に残った。
火は見える。でも、その熱までは掴めない。
そう思いながら、俺は構内へと歩を進めた。
「──おや、そこの麗しい姫君。くるりと巻かれた髪が素敵だね。よく似合っているよ。どうだい、この後お茶でも――」
……やっぱり、この妖怪に護衛頼んだの、間違いだったんじゃないか?
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