最終章 : 波紋する予言
俺たちは広浄水場の地下深く、暗い岩の隙間を抜けてさらに先へ進んだ。水流に逆らうように石段を下り、最後の一歩を踏み出した瞬間、視界が一変する。
そこは闇の奥に隠されていたとは思えないほど、異様に荘厳な空間だった。青白い淡光に照らされて無数の柱が林立し、濡れた石の床は鏡のように輝いている。
俺は思わず足を止め、息を呑んだ。静まり返った光景に、鼓動がひときわ大きく響く。ここには生命すら宿るような不気味な美が満ちていた。
滴る水が光の波紋を壁面に描き、冷たいはずの空気も何故か肌に心地よい。俺は現実離れした光景に、異界に迷い込んだ錯覚を覚えた。
「こ、これは……」
隣で鎌鼬が息を呑むのが聞こえた。その声音には驚きと警戒が入り混じっている。青頭巾も目を見開き、錫杖を握る手に力を込めていた。百目だけは静かに周囲を見渡し、ゆっくりと頷く。
「……間違いない。広浄の最深部だろう」
低く抑えた声が響き、俺も我に返った。
そうだ、俺たちはフォルネウスを追ってここまで来たのだ。激闘の末、海魔の邪気は掻き消えた。残るはこの奇怪な神殿のみ——そして、奥に蠢く無数の気配。
視線を凝らすと、暗がりの中に人影……いや、人ではない形が幾つも横たわっているのが分かった。
大小様々な輪郭が寄り集まるように散在し、そのどれもが微動だにせず沈黙している。俺たちはゆっくりと警戒を緩めずに歩み寄った。青白い淡光が横たわる姿を照らし出し、その正体が明らかになる。
「妖怪……!」
思わず俺は声に出していた。床に倒れ伏すもの、壁にもたれ掛かるもの、柱の陰に蹲るもの——すべてが妖怪だった。
子供ほどの小さな翁の姿をした小豆洗い、牛の頭を持つ件、毛むくじゃらのすねこすり。透き通る肌の雪女に、巨大な車輪の輪入道、炎の尾を引く火車……名だたる妖怪たちがひしめいている。
その数は優に五百――いや六百にも上った。
青頭巾が唾を飲み込み、掠れ声で言った。
「冗談だろう……此奴ら、全員あの海魔に囚われていたのか……?」
俺は静かに頷いた。見間違いではない。この空間いっぱいに封じられているのは、紛れもなく妖怪たちだった。
佐城博とフォルネウスに攫われ、力を搾り取られていた妖怪たちなのだろう。百目は険しい表情で頷いた。
(この数日間で、こんなにも大勢の妖怪が攫われていたのか……)
しかし今や、忌まわしき支配は終わりを迎えつつある。フォルネウスが消滅した影響か、周囲の瘴気はすでに霧散していた。神殿を包んでいた不吉な空気が次第に薄れ、代わりに澄んだ水の音が耳に入ってきた。すると、
「……う、うう……」
微かに、誰かの呻くような声がした。ハッとして音の方を見る。柱の根元に横たわっていた一体が、ゆるりと身動ぎしたのだ。
角のある影——件が首をもたげ、苦しげに瞬きをしている。その様子は夢から醒めた人間に似ていた。
その言葉を合図にしたかのように、周囲でも次々と物音が立ちはじめた。長い間止まっていた時が再び動き出したかのように、妖怪たちが一斉に息を吹き返す。小豆洗いがむっくりと身を起こし、困惑したように周囲を見回した。
壁際の雪女は薄氷のような瞳を開き、静かに立ち上がり、すねこすりは小さな声で鳴いて足元で震えている。
「嘘だろ……みんな、一斉に起き始めたぞ……」
俺は半ば呆然と呟いた。目の前で繰り広げられる光景は、正に百鬼夜行――いや、それ以上の妖怪の行進だった。
妖怪たちは戸惑いながらも、次第にこちらに気づき始めた。
大勢の赤や黄の瞳が一斉にこちらを向いたときは流石に肝が冷える。俺は反射的に身構えたが、彼らに敵意はなかった。ただ怯えたような、あるいは安堵したような表情で、ゆっくりと道を求めて歩き出している。
「大丈夫、襲ってくる様子はない」
百目が俺の肩に手を置き、静かに言った。
「彼らも混乱しているだけだろう。自由になったのだから、好きにさせてやろう」
俺は頷き、警戒を解いた。解放された妖怪たちは、それぞれの帰るべき場所を求めて歩み出す。
中には誰とも視線を合わさず、半ば夢遊病者のようにふらふらと彷徨う者もいた。
逆に、こちらに深々と頭を下げていく者もいる。雪女は俺たちに一礼すると、スッと音もなく暗がりに消えた。
輪入道はごろごろと車輪を軋ませながら、そのままどこかへ転がり去っていく。小豆洗いは豆を洗う仕草を繰り返しながら、小走りに去っていった。
目の前を次々と妖怪たちが通り過ぎていく。
俺たちは、しばし呆然とその行列を見送った。湧き上がる感情を言葉にできず、ただ立ち尽くす。静かな水音だけが神殿に反響し、現実味のない光景に心が震えた。
「凄いなぁ……」
鎌鼬が絞り出すような声で言った。
「まさか一晩で百鬼夜行を見る羽目になるとは、な」
「ふ、ふふ……本当に!」
俺は思わず吹き出しそうになった。極限の緊張から解放されたせいか、奇妙な笑いが込み上げてくる。
静寂だけが残る。俺はそっと目を閉じた。戦い抜いた安堵と虚しさが胸に渦巻く。
ふと胸の奥で何かが波打った。その瞬間、静まり返った空間にあり得ないはずの声が響いた気がした。
『純壱……』
ハッとして顔を上げる。しかし仲間たちは変わらずそこに立っているだけで、特に反応はない。
俺は戸惑って辺りを見回した。今、確かに誰かが俺の名を——いいや、声というよりも直接頭に浮かんできたような……。
(今のは……気のせいか……?)
「純壱ちゃん、どうしたんだい?」
百目が不思議そうにこちらを覗き込む。
いけない——表情に出てしまったのか。俺は慌てて「い、いえ……なんでも」と首を振った。しかし内心の動揺は隠しきれない。
あの声は、確かに祖父・縁のものだった。しかも病床で聞いた枯れた声ではない。若々しく張りのある、俺が知らないはずの祖父の青年期の声——。
そんな馬鹿な、と否定しようとしても、胸に渦巻く不安は消えてくれない。
「……行きましょう。夜が明けないうちに、ここを出るとしましょうか」
自分でも驚くほど落ち着いた声が洞窟に響いた。百目たちは一瞬目を丸くしたが、すぐに頷き返してくれる。俺たちは再び並び立ち、来た道へと歩み出した。神殿の入口で一度だけ振り返る。暗闇の奥で、水滴がまた一つぽたりと落ち、静かな波紋を描いていた——そして、その波紋は確かに、俺に囁いた。
『純壱、お前は三日後に死ぬよ』




