3-1
(――陽が、落ちてきたな)
水平線がほのかに紅に染められていく。
穏やかな波の上を駆けてくる風はいくぶん涼しさを増し、火照った頬を優しく撫でていく。漆黒の髪を梳いていく。
(陽が、落ちる)
今日も。
いつもと変わらぬ速さでゆっくりと、自分たちを照らし続ける太陽が暇をとろうと姿を隠していく。
沈んでいく。
(沈む……)
また今日も。
しかし定められた時が経てば、太陽は再び天に昇る。
決められたとおりに。
皆が信じるとおりに。
望むとおりに。
太陽は絶対に、皆の頭上から完全に姿を暗ますようなことはしないのだ。
絶対に。
「…………」
まだ熱を持っている砂浜に腰を下ろし、徐々に赤くなる水平線を見つめる。
左腕で左膝を抱え、砂の上に置かれた右手は先程から意味もなく細かい粒子の砂をすくい、滑り落としている。
今日この場所で海を見続けて、もういくばく経つだろう。ずっと動くことはない。
形の変化する波は見ていて飽きない。移ろいゆく海の色は見ていて飽きない。
ここの所、特にそう思うようになっていた。穏やかにゆっくりと、何かに身を任せるようにして海は横たわっている。その雄大さがやけに心地いいのだ。
胸の奥まで潮風が染み渡っていくようなのだ。
「――あれ? ダルナさん?」
背後から声。
振り返ると、青年が一人、ゆっくりとこちらに歩み寄ってきていた。
見知らぬ顔だ。しかし、その表情に敵意はない。むしろ、かすかな感動さえ見える。
「ダルナさん……ですよね? うわ、驚いたなあ。こんな所で会えるなんて。あ、俺、以前あなたを見かけたことあるんですよ。だから後ろから見て、もしかしたらそうかなぁって。あれ、今日はどうしたんです? また何かあったんですか?」
数歩離れたところから自分を見下ろしている。その屈託のない笑顔に、ダルナも表情をやわらかくしてみせた。
「いや。別に何かあったわけではないよ。心配には及ばない。今日はね、貨物船が着くというから油を買いにね。集落のみんなに頼まれたんだ」
「うわぁ、すごいなあ。ダルナさんを使いに出すなんて……」
「長老の言い付けとあってはね。それに、俺自身、こうやって海を見にくるのは楽しいし」
「へえ。さすがダルナさんだぁ」と、青年は純粋に感動している。そんな彼にダルナは少し微笑んだ。そしてまた、水平線に視線を向けた。もうその眼差しに先程までの色はない。ダルナは何を感じるでもなく、ただ海に目を向ける。
「ダルナさん、明日の市には行きますか? 今日貨物船が着くはずだから、いつも以上に活気のある市になると思うんですけど」
青年は少し寄ってきたようだ。
だが、ダルナは海を見たまま口を開く。
「いや。とりあえず油を買ったらさっさと集落に帰るつもりだよ」
「そうなんですか? でも、もう陽も暮れてきちゃったし、いつになったら船着くか分かんないし、一晩港に泊まって明日の市に少しでも顔出しません? あ、俺明日、果物屋出す予定なんですよぉ」
わざわざ振り返って彼の顔を見上げずとも分かった。つまりは自分に少しでもいいから来てもらいたいのだ。そうして、実は知合いなんですと言いふらしたいのだ。自慢したいのだ。この自分を使って。
そんな輩は……いくらでもいる。
いくらでも、いる。そうしたいがために近付いてくる人。話しかけてくる人々。
自分の実績だけに目を止めて、自分自身などほとんど知らないというのに、偶像にしたて上げて、満足して。
自分に一体、何を求めているというのか? 何を、自分は与えたらいいというのか?
「…………」
いつの間にか、太陽はその姿の半分を海に沈めたようだった。まだ空は明るいがこれもそう保ちはしないだろう。
確かに自分が油を買い付けた頃には、最早辺りは真っ暗なのかもしれない。それでも自分の集落に帰るというのは、少し無理があるのかもしれない。
「船が来たぞ!」
遠くで声がした。
振り返って声の方を見てやると、人が何人か船着場の方へ走っていっている。
「なあ! 本当に船が来たのか!?」
見知った人間がその中にいたのか、自分のそばにいた青年が声を上げていた。
その声を聞きつけた彼は、一度足を止めると大きく首肯いてみせる。
「本当に来たみたいですよ、ダルナさん」
船着場の方を指差して、青年は行こうと促した。
ダルナはゆっくりと立ち上がる。荒い手触りの布で出来た服に付いた砂を払い、青年を見た。
また少し、微笑んでみせる。
「ああ。――それと、よかったら後で、格安の宿を紹介してくれないかな?」
途端、彼の顔が輝いた。
自分の家に泊まればいい、金はいらない、と、言ってくれた。
青年の足取りは異様に軽い。ぐんぐんダルナを船着場までひっぱっていってくれる。どうやら油も予想よりいい品質の物が手に入りそうだ。もしかすると、明日はたくさんの果物を抱えて帰ることになるかもしれない。
そう考えて、ダルナは歩み、そして、最高の笑みを隣の青年に向けてやるのだ。