2-8
「……暑いな」
へりに背を預け、両肘をついて体を反らし、赤く染まりつつある空を見上げながらリオンは一人ごちた……はずだった。
少なくとも、リオン自身は今の言葉を誰に聞かせようという気はなかった。だが、隣からは声。
「あら、そう? 陽が落ち始めて、風も涼しくなってきたし、真っ昼間よりかは過ごしやすくなったんじゃない?」
体を起こすと長年聞き馴染んできたその声の主に顔を向ける。
へりの上に頬杖なんかをつき、悠然と構えている女、『伝令の司』、フィル・ユイカだ。
彼女はかすかに吹いてきた風にやわらかい赤毛の髪をなびかせ、いかにも心地がいいといった表情をして海の向こうに視線を走らせていた。
その態度がリオンには挑発的に思えて仕方ない。
「――過ごしやすいものか。じめじめしていて、よっぽどリル=ウォークの方が過ごしやすい」
王宮のある都市、リル=ウォークも確かに万年夏の気候ではあるが、すぐそばに砂漠もあるように、空気はからっとしていた。その点、ここはいけない。湿気が多すぎる。小さい頃からリル=ウォークで過ごしてきたリオンにはどうもこの気候というのは馴染めないのだ。
「リル=ウォークと比べちゃダメよ。あそこは何だかんだ言って過ごしやすい土地なんだから。それに、真っ昼間は弟子たちを追い出して一人のんびりと船内にいた人が暑いとか言っちゃダメよね。もう大人なんだから、我慢するとこはしなくちゃ」
弟子たちを船室から追い出した覚えはリオンには全くない。自分のいる船室に近付かなかったのは弟子たちの勝手な行動だ。それに、フィルの「もう大人なんだから」とはどういうことだろう。自分にはそんなに気候に文句を言った覚えもなく、大体、「暑い」と呟いたことだとて誰に聞かせるつもりもなかったのだが。
勝手に解釈して勝手なことを言っているのはフィルの方だと心の中で納得をつけた。しかし、それをわざわざ口に出す気もない。もう一度体を反らせると、益々赤に染まっていく空を見る。
「――暑いな……」
ぽつりと。
意識はしていなかったはずだ。だからこそ、自分自身が呆気に取られてしまう。そして徐に体を起こし隣にいるフィルを見てやると、彼女もまた茶色の目をまんまるくしてリオンの顔を見ているのだ。
あからさまにびっくりしたという顔のみのフィルの攻撃に、リオンは何も言えはしない。
「…………」
「……そんなに暑いなら、『精霊』に頼んでもっと気持ちのいい風、送ってもらったら?」
さらりとフィルは提案をしていた。
それはからかいなのかなんなのか。ただ、その言葉の直後に彼女の赤い唇の両端がわずかに吊りあがっているのが見られたため、本気になってリオンは応えてしまうのだ。
「馬鹿言うなよ。ただ自分が暑いなんていう極めて自分勝手な理由で『精霊』を動かせるものか」
フィルは隣で笑っている。
「やぁだ。かたいのねぇ。いくらなんでもそんなことじゃ『精霊』は契約破棄してこないわよ」
「でも、気の持ちようだろ?」
『精霊』が人間に力を貸すのは、『精霊』と敵対する『魔』を排除するという目的のために他ならない。そのため『精霊』は『精霊使い』のわがままで動かされることを嫌い、また、信用のできない人間も嫌う。だから『精霊』への誓いは絶対とされているほどだ。もし『精霊』がその人間のことを嫌ったら二度と『精霊』はその人の命に従うことはないのだから。
それはすでに『精霊』と契約を結び『精霊使い』になっている人の身の上にも十分に起こり得る。それを避けるため、『精霊使い』はほとんど自分のわがままのために『精霊』を使うことがないのだ、が。
「……まあその辺りは、『精霊』との信頼関係よね」
余裕綽綽にフィルが呟いている。それほどの信頼関係が自分と『精霊』との間には成っていると言いたいのだろうか……?
「…………」
じっとその横顔を見ていたが、真意ははかり知れない。まあどちらにしろ自分にはあまり関係のないことだとリオンは結論付ける。
そしてフィルと同じように海に体を向けた。
「ところで、フィル。一つ尋ねたいんだが……」
ささやくように口にした。
背後のデッキ上では何人かの船員たちが働いていた。風が出てきたために帆を張るらしい。その人たちに聞こえぬよう、リオンは配慮をするのだ。
「『光の精霊』、使おっか?」
フィルは告げるが早いか、『光の精霊』を呼んでいた。
『光の精霊』は光、明るさの調整はもちろんのこと、音と光を遮断する力も持ち合わせているのだ。
「それで?」
フィルが改めて口を開く。彼女は何も言わないが、多分これで声だけは他の人間に聞かれないようになっているのだろう。
「お前、どう思う? さっきの『魔』」
相変わらず頬杖をつきながらフィルは少し首を傾げる。
「……まあ、予想どおりといいますか」
「……じゃあ、やっぱりあれが目標、だと?」
「リオンはそう見た?」
「まあな」
「直感?」
「……前情報付きの、直感。かな」
「……私と同じね」
しばしの沈黙。
その間に、リオンは自分の直感がほぼ正しいことを確信する。『司』二人が直感でそう思ったのだ。だから、多分それで正解なのだろう、と。
視線を船首の方に走らせた。見えるのは夕日に照らされる海だけだ。目的地、トーディ島まではまだ二日かかる。
あと、二日。
「フィル。仕事を頼まれてくれないか」
彼方の海に視線を向けたまま、強ばった口調で言った。間を置いてから、フィルは返答してくる。
「……言っわれなくってもするわよ。じゃないと私、何のためにここにいるか分っかんないじゃない。別に好き好んでこんな暑い陽射しの中に身を置いているわけじゃないんだからっ」
言い放った。
リオンは言葉を耳にするだけでわざと彼女顔を見ることはしなかった。
それは、フィルの真意を知っているから。
確かに今回の仕事にはもう一人の『司』の手伝いが必要だった。だが、その人はフィルでなくともよかったはず。他の『司』でも全くかまわなかったはず。なのに、彼女は自らわざわざ名乗り出たのだ。今回のこの旅に影で同行する、と。
「……いい気晴らししろよ」
リオンなりに考えた言葉だった。慰めようとしたのだ、彼女の数年来の一途な思いを知っているだけに。幼い頃からの彼女の一生懸命さを知っているだけに。
「……あんたみたいな恋愛音痴に言われたかない言葉だわね」
充分の悪態。心のどこかにひっかかりを覚えながらも、リオンは沈黙を保つ。フィルの次の言葉を待つ。
「それに、いまさら失恋の痛みなんて大して感じないわよ。――だって、あの二人が離れることは絶対にありえないって、そんなこと、……結婚っていう誓約がなくったって、分かり切っていたことなんだし」
視線を向けると、ただ赤い髪が風に吹かれ揺れていた。その茶色の両眼がどこを見ているのかは分からない。
リオンはもう言葉を重ねはしない。伝えるのは、仕事の内容だけ。
「偵察、頼むよ」
フィルが動く。
頬杖を解き、一度ぐっとのびをすると、やわらかい髪の中に片手を突っ込み髪をほぐす。そして、ぎっと鋭い視線をリオンに向けると、
「私のいない間、くれぐれも弟子たちとは仲良くしなさいよっ」
そう言い付け、ふっとその場から消えてしまうのだ。
特殊能力の一つ、瞬間移動能力。フィルが『伝令』を名乗る所以である。
「……有喜が泣かせた女、か……」
一人その場に残ったリオンは再び海を見た。真っ赤に染まる海。空の一部はもうすでに暗い。
「あと二日……」
呟いて、へりに頬杖をつく。
とりあえず、リオンは先行きの不安に心を充たすわけではなく、まだ二日はゆっくりできるのだと、考えることにしたのだ。




