第一章 目覚め
はじめに、何もなかった。
そして彼は、何の脈絡もなく、唐突にそこに「在り」となった。
自分が誰なのか、「名前」とは何かすらわからない。不安を抱くことさえできなかった。不安という感情を抱くには、あらかじめ「失いたくないもの」を知っていなければならないからだ。彼はただの形なき存在にすぎず、何ひとつ定かではない空間を漂っていた。ここは果てしなく広く、彼はあまりに微かで、それを「存在」と呼ぶことすら頼りないほどだった。
いつの頃とも知れぬ時、最初の記憶が意識の底へと流れ込んできた。
――痛い。
それは鈍く、湿った疼きだった。たっぷりと水を吸った綿の塊が、胸の奥を重く圧迫しているような。彼はその痛みに身を縮こませた。縮こまったその瞬間、ひとつの光景がこぼれ落ちた。
雨。雨漏りする軒先。青みがかった石畳に弾ける水しぶき。威勢のいい女が傘を押しつけてくると、彼女はカバンを頭にかざしたまま雨の中へ駆け出し、走りながら笑っていた。
それが誰なのか、彼にはわからない。だが、その記憶の欠片だけは温かかった。空っぽの存在の深淵へと落ちていき、かすかな響きを立てた。
――これは、俺のものだ。
やがて記憶は潮のように満ちて、少しずつ意識の浅瀬へと這い上がってきた。
路地裏。夏。花椒と牛脂が醸し出す、あの濃厚な火鍋の薫り。ラジオの気だるい旋律。槐の木の下にしゃがみ込み、うちわを扇ぐワン爺さんが、頭上から洗濯水を浴びせかけられても、ニヤリと笑ってよけようともしない。オフィスビル。中央空調の冷たい風。二列のデスクを隔てた向こう側で、欣欣という娘がうつむいて帳票の数値を修正している。彼はそれを三年間見つめ続け、一度として想いを告げる勇気を持てなかった。ワン爺さんが声をひそめて言った。「お前な、もう言わんと、ほかの男に横取りされるぞ」。彼は笑いながら、ペンのキャップを投げ返した。
その光景がひとコマずつ灯るたび、彼は自らが少しずつ「現実」を帯びていくのを感じた。
彼の名は、亜軍。
正気を取り戻した彼が、真っ先に求めたのは「家」だった。
誰に教わったわけでもない。存在の裂け目からこぼれ落ちた者が最初に抱く衝動とは、「ここはどこだ」という問いではなく、記憶が最も深く馴染んだ場所へと、ただ振り返ることなのだ。
念じた瞬間、彼はすでにそこに「在った」。
そこに至るまでの移動も、振り返る動作すらない。一念あれば、即ち到達する。彼自身、その決定的な異常さに気づいてすらいなかった。家のあるべき場所に辿り着いたというのに――そこには、家などなかった。
代わりに、ひとつの世界が浮かんでいた。
どう見ても、かつての彼の世界ではない。
高層ビルもなく、モノレールがビルを貫く奇景もなく、朝天門で二つの川が描き出す濁りと澄みの境界線もない。眼前には果てしない蒼翠の世界が広がっていた。シダの森が沼地を重く押し潰し、濁った大河が悠々と流れる。巨大な翼を持つ影が天頂を掠め、現世のいかなる鳥のものとも違う、鋭く長い鳴き声を響かせて去っていく。
森の縁のぬかるみの上では、手のひらほどの毛むくじゃらの小動物たちが身を低くして、地を這うように疾走していた。その背後を、小山のような影が、一歩、また一歩と、急かすことなく追いかけてくる。
一匹が慌てて岩の隙間に潜り込み、ふたたび首をもたげて後ろをうかがう。その黒く湿った小さな瞳には、恐怖に満ちていた。
その血は温かい。胎生。そして乳腺を持つ。
まさか……これは、哺乳類の祖先か?
「小さなご先祖様、お前もろくな目に遭ってないんだな」
ふと、戯れのような思いが湧き上がった。もしこの恐怖に怯える小さな先祖に、強靭な牙と、岩をも消化する強大な胃袋を与えたら、どれほど痛快だろうか。
だが、火の使い方すら知らない腹の中に、そんな牙と胃袋を詰め込んだなら――この生まれたての世界は、一万年ももたず、食い尽くされて終わりだ。
その時になって、彼は遅ればせながら気づいた。たったいま脳裏をよぎった空想が、もし現実のものとなれば――進化の軌道は激しくねじ曲がり、この世界はそのまま破滅へと直行する。
では、彼の故郷の世界はどうなったのか。
背筋を駆け上がる冷たさを押し殺し、彼はひとつの事実を確かめようとした。ここは、本当に自分の故郷なのか。
彼は眼前に茫漠と広がる大湖を見下ろした。湖水は遠く、幾重にも連なる低い丘々へと溶け込み、湖岸から舌状に突き出した岬が、灰緑色の水面へと半ば沈み込んでいる。
――まるで、渝中半島の輪郭だった。
一億五千万年前、そこにはまだ名前すらなかった。解放碑も、モノレールも、路地裏もない。だが、この緩やかな水際の輪郭は、記憶に刻まれた朝天門の地形と、寸分違わず重なっていた。
川はすべてを覚えている。忘れたのは、街のほうだ。
何者かが、あの火鍋の香りと壊れかけの街灯に満ちた世界を丸ごと消し去り、同じ真っ白なキャンバスの上に、最も古い一頁から、もう一度描き直した。
この世界は、再起動されたのだ。
彼の路地裏。彼の欣欣。三年間、想いを告げられぬまま見つめ続けた欣欣。三ヶ月も修理待ちだったあの街灯ごと――すべてが坩堝に戻され、溶かされ、再構成された。
その瞬間、あらゆる断片が噛み合ったかのように、空が歪んだ。まるで紙の端が炎に巻かれ、黒く縮れあがるように。彼は、世界の終わりに死んだのではない。
自分の世界が、目の前で静かに回収されていくのを、ただ見届けていただけだった。
そして彼自身は? 新たなる世界の産声とともに還ってきた――だが、いまの彼は、目の前の光景すらはるかに超越した「何か」になりつつある。
まさにその時、意識の最深奥で、何かの水門が「カチリ」と音を立てて開いた。
流れ込んできたのは、彼自身の記憶ではなかった。彼の記憶の潮は、とっくに満ちていた。
――別の何かだった。




