第14話 一人では笑えない
三月。東京の街に、別れの季節特有の埃っぽい風が吹き始めた。
駅のホームでは、袴姿の女子大生や、大きな花束を抱えたサラリーマンの姿を見かける。
誰もが新しい場所へ旅立ち、新しい一歩を踏み出そうとしている。
僕だけが、同じ場所に立ち止まっていた。
相変わらずの満員電車。相変わらずの謝罪行脚。相変わらずの、独りぼっちの部屋。
西野さんとのLINEは、もう一ヶ月以上動いていない。
彼女の転勤まで、あと二ヶ月。
引越しの準備もあるだろう。送別会も続いているだろう。
「忙しい彼女の邪魔をしてはいけない」
それは今まで、僕が動かないためのもっともらしい言い訳だった。でも、この一ヶ月の漆黒のような孤独を味わって、ようやく僕は自分の卑怯さを認めることができた。
僕は、傷つくのが怖かっただけだ。
最後に会って、「やっぱり遠距離は無理です」と断られるのが怖かった。
笑顔で「さようなら」と言われるのが怖かった。
だから、自然消滅という、もっとも安全で、もっとも冷酷なシェルターに逃げ込んでいたのだ。
*
金曜日の夜。
いつものように一人でコンビニの缶チューハイを飲んでいると、スマホが震えた。
『あかり』の文字を期待して画面を見た僕は、小さく溜息をつく。
通知は、フォローしていた『スニーカーズ』の公式アカウントからだった。
『【重大発表】スニーカーズ、初のホール単独ライブ決定!』
添付された画像を見て、僕は息を飲んだ。
場所は、あの駅前市民ホールの「大ホール」。
一年前、彼らが長机とパイプ椅子を並べた「小会議室」でやっていた場所の、メインステージだ。
そして、開催日時は――
『四月十五日(土) 開演14:00』
カレンダーを見るまでもなかった。
あの日だ。
僕が駅前で1500円のチケットを衝動買いし、翌日、彼女と隣の席になったあの日から、ちょうど一年後だ。
彼らは、一年間努力を続けて成長してきた。
路上で泥水をすすり、予選で敗退し、それでも諦めずに笑いを届けてきた結果だ。
(……僕は、どうだ?)
この一年、僕は何か変わったか?
一歩でも前に進んだか?
いや、一度掴みかけた光を、怖がって手放しただけじゃないか。
画面をスクロールする。
『チケット先行販売、今から開始!』の文字。
いつもなら、ここで待つはずだ。
「西野さん、これ知ってるかな」「誘ってくれないかな」と、受け身の姿勢で。
でも、もうわかっている。待っていても何も起きない。
このまま四月十五日が過ぎれば、彼女は五月に黙って東京を去るだろう。二度と会うことはない。
指先が震えた。
アルコールのせいじゃない。今まで流されるままで動いてきた僕が、自分からアクションを起こすのは初めてのことだった。
「……くそっ」
僕は購入ボタンを押した。
枚数は「2」。
「行くかどうかわからない」ではない。「行く」のだ。彼女と一緒に。
決済完了の画面が表示される。
クレジットカードで引き落とされた金額は、ペアで8000円。ため息をつく。
一年前の倍以上の値段だ。でも、今の僕には、どんな宝石よりも価値のあるチケットに見えた。
次は、もっと高いハードルだ。
LINEのトークルームを開く。
一ヶ月以上前の履歴が、冷たく残っている。
なんて送る?
『久しぶり』? 『元気?』
違う。そんな探り合いはもういらない。
僕は深呼吸をして、文字を打ち込んだ。
『ご無沙汰しています。原田です。
スニーカーズの単独ライブが決まりました。四月十五日です。
僕たちが出会ってから、ちょうど一年の日です。
勝手ながら、チケットを二枚取りました。
もし、まだ東京にいらっしゃるなら……引越しの準備でお忙しいとは思いますが、一緒に行きませんか?
僕は、西野さんと笑いたいです』
送信ボタンを押す瞬間、心臓が口から飛び出しそうだった。
「笑いたいです」なんて、三十過ぎのおっさんが書く文章じゃない。
でも、これが嘘偽りのない本音だった。
一人で見るテレビはつまらない。一人で飲む酒は苦い。
君が隣にいないと、僕の世界は面白くないんだ。
既読がつかない。
一分、五分、十分。
喉の奥が乾くのを感じた。引っ越し準備で忙しい中、急に誘われて迷惑だっただろうか。
「送信取り消し」が頭によぎる。
スマホを握りしめた手の中で、汗が滲む。
もし、「もう予定があります」と言われたら。
「その日はもう福岡です」と言われたら。
あるいは、既読スルーされたら。
悪い想像ばかりが頭を巡る。
でも、後悔はなかった。
少なくとも僕は、今日、初めて「現状維持」を壊した。自分でチケットを買った。
結果がどうあれ、僕は僕の人生のハンドルを、自分で握ったのだ。
十分後。
ピロン、という通知音が、静まり返った部屋に爆音のように響いた。
『行きます』
短い一言。そのあとに、少し時間を置いて、もう一通。
『私も、原田さんと笑いたいです。……連絡してくださって、ありがとうございます』
その文字を見た瞬間、張り詰めていた糸が切れ、視界が滲んだ。
部屋の空気が、一気に温度を取り戻した気がした。
四月十五日。
それが、僕たちの最後の一日になるのか、それとも始まりの一日になるのか。
それはまだわからない。
けれど、約束は交わされた。
僕は缶チューハイの残りを一気に飲み干した。
久しぶりに感じる、甘くて、少し酸っぱい味がした。
(第15話へ続く)




