表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「お笑い好きな、君が好き」  作者: 黒田哲也


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
13/19

第13話 空白のバレンタイン



 年が明けてすぐ、松の内も明けない頃。

 西野さんからLINEが届いた。

『遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。

 例の件、会社にお受けする旨を伝えました。

 ただ、向こうのオフィスの工事が遅れているらしく、辞令が出るのは五月一日付になりそうです。

 もう少しだけ、東京にお世話になります』

 スマホの画面を見つめながら、僕は安堵と、それ以上に重たい徒労感を感じていた。

 五月。

 本来なら四月でお別れだったのが、一ヶ月伸びた。

 「よかったですね」とも「寂しいです」とも送れず、僕は『承知しました。引越しの準備、余裕ができてよかったですね』とだけ返した。

 まるで事務連絡だ。

 でも、これで確定した。彼女はいなくなる。

 期限が三ヶ月後だろうが四ヶ月後だろうが、結末が決まっている映画を見ているようなものだ。

 終わりが見えている関係に、これ以上深入りして何になる?

 情が移れば移るほど、五月の別れが辛くなるだけだ。

 そう結論づけた僕は、それ以来、彼女を食事に誘うのをやめた。

 彼女からも、具体的なお誘いは来なくなった。

 僕たちは、「転勤が決まった同僚と、それを見送る元同僚」という、もっとも安全で、もっとも冷たい距離感に収まったのだ。

             *

 そして、二月十四日。

 世の中がもっとも甘く、そして残酷な色に染まる日がやってきた。

 食品メーカーのオフィスは、朝からどこか浮足立っていた。

 女性社員が配る「義理チョコ」の山。管理職のおじさんたちが「いやあ、悪いね」と鼻の下を伸ばす光景。

 それは日本の企業社会における潤滑油であり、無難な通過儀礼だ。

「原田さん、これ。いつもありがとうございます」

 後輩の女性社員から、小さな箱を渡された。

 デパートでまとめ買いしたであろう、数百円のチョコレート。

「あ、ありがとう。気を使わせてごめんね」

「いえいえ、日頃の感謝ですから! ホワイトデー期待してますよー」

 軽口を叩いて去っていく彼女を見送り、僕はデスクの引き出しに箱をしまった。

 そこにはすでに三つの義理チョコが入っていた。

 

 安全だ。

 ここには「勘違い」も「傷つき」もない。

 適度な距離感と、社交辞令でコーティングされた、大人の人間関係。

 僕が望んだのは、こういう世界だったはずだ。波風を立てず、誰かの特別な存在になるリスクを背負わず、淡々と過ぎていく日々。

 だというのに。

 引き出しを閉めた瞬間、胸の奥に冷たい風が吹き抜けた。

 もし、彼女がまだ「五月までいる」ことを知らなかったら、「もうすぐいなくなる人だから」と諦めがついただろう。

 でも、彼女はまだ東京にいる。

 電車に乗れば会える距離にいる。

 

 スマホを見る。

 通知はない。

 西野さんとのトークルームは、一月の『準備、頑張ってください』という僕のスタンプで止まったままだ。

 もし僕が、「転勤前に思い出作りましょうよ」と強引に誘っていたら?

 今日、この手の中に、彼女からのチョコレートがあっただろうか。

 義理でもいい。友チョコでもいい。彼女が僕のために選んでくれた何かが、ここにあっただろうか。

 そんな「もしも」の未来を、僕自身が「事なかれ主義」という名のハサミで切り捨てたのだ。

             *

 定時で会社を出た。

 どこもかしこもカップルだらけだ。

 その光景から逃げるように、僕はいつものコンビニでおにぎりと缶チューハイを買い、アパートへ帰った。

 部屋は冷え切っていた。

 暖房をつけ、テレビをつける。

 バラエティ特番をやっていた。人気芸人たちが、バレンタインの失敗談を面白おかしく語っている。

『いやー、学生時代に下駄箱開けたら手紙が入ってて! 期待して開けたら果たし状だったんですよ!』

 スタジオがドッと湧く。テロップが踊る。

 プロの芸だ。面白い。

 

 ――面白い、はずだ。

 僕は缶チューハイを煽りながら、画面をぼんやりと眺めていた。

 口角が、上がらない。

 頭では「ここが笑いどころだ」と理解しているのに、心がピクリとも動かない。

 

 以前はどうだった?

 一人で見ていた時も、それなりに笑えていたはずだ。

 それがどうだ。今はまるで、色のない映像を見せられているようだ。

「……そっか」

 不意に、気づいてしまった。

 

 西野さんと出会ってからの数ヶ月。僕が楽しかったのは、漫才が面白かったからだけじゃない。

 「ねえ、今の聞いた?」と共有できる相手がいたからだ。

 隣で彼女が、涙を流すほど笑い転げている姿を見て、つられて笑っていたからだ。

 笑いとは、共鳴だ。

 一人で完結するものじゃない。誰かと波長が合った瞬間に生まれる、温かな火花だ。

 

 その火花を失った今、僕の世界は以前の「灰色」に戻ったのではない。

 一度「極彩色」を知ってしまった分、より深く、暗い「漆黒」に沈んでしまったのだ。

 五月になれば、彼女は本当にいなくなる。

 そうなれば、この漆黒が一生続くことになる。

 「現状維持」を選んだつもりだった。でも、僕が選んだのは「緩やかな後退」と「孤独への回帰」でしかなかった。

 日付が変わる頃、遠くで電車の走る音が聞こえた。

 バレンタインが終わる。

  

 片手に持っていた缶チューハイを机に置き、テレビを消す。

 何の事件も起きず、誰とも繋がらず、平穏無事に過ぎ去った一日。

 それがこれほどまでに虚しいものだとは、三十年も生きてきて、初めて知った。


(第14話へ続く)




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ