第13話 空白のバレンタイン
年が明けてすぐ、松の内も明けない頃。
西野さんからLINEが届いた。
『遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。
例の件、会社にお受けする旨を伝えました。
ただ、向こうのオフィスの工事が遅れているらしく、辞令が出るのは五月一日付になりそうです。
もう少しだけ、東京にお世話になります』
スマホの画面を見つめながら、僕は安堵と、それ以上に重たい徒労感を感じていた。
五月。
本来なら四月でお別れだったのが、一ヶ月伸びた。
「よかったですね」とも「寂しいです」とも送れず、僕は『承知しました。引越しの準備、余裕ができてよかったですね』とだけ返した。
まるで事務連絡だ。
でも、これで確定した。彼女はいなくなる。
期限が三ヶ月後だろうが四ヶ月後だろうが、結末が決まっている映画を見ているようなものだ。
終わりが見えている関係に、これ以上深入りして何になる?
情が移れば移るほど、五月の別れが辛くなるだけだ。
そう結論づけた僕は、それ以来、彼女を食事に誘うのをやめた。
彼女からも、具体的なお誘いは来なくなった。
僕たちは、「転勤が決まった同僚と、それを見送る元同僚」という、もっとも安全で、もっとも冷たい距離感に収まったのだ。
*
そして、二月十四日。
世の中がもっとも甘く、そして残酷な色に染まる日がやってきた。
食品メーカーのオフィスは、朝からどこか浮足立っていた。
女性社員が配る「義理チョコ」の山。管理職のおじさんたちが「いやあ、悪いね」と鼻の下を伸ばす光景。
それは日本の企業社会における潤滑油であり、無難な通過儀礼だ。
「原田さん、これ。いつもありがとうございます」
後輩の女性社員から、小さな箱を渡された。
デパートでまとめ買いしたであろう、数百円のチョコレート。
「あ、ありがとう。気を使わせてごめんね」
「いえいえ、日頃の感謝ですから! ホワイトデー期待してますよー」
軽口を叩いて去っていく彼女を見送り、僕はデスクの引き出しに箱をしまった。
そこにはすでに三つの義理チョコが入っていた。
安全だ。
ここには「勘違い」も「傷つき」もない。
適度な距離感と、社交辞令でコーティングされた、大人の人間関係。
僕が望んだのは、こういう世界だったはずだ。波風を立てず、誰かの特別な存在になるリスクを背負わず、淡々と過ぎていく日々。
だというのに。
引き出しを閉めた瞬間、胸の奥に冷たい風が吹き抜けた。
もし、彼女がまだ「五月までいる」ことを知らなかったら、「もうすぐいなくなる人だから」と諦めがついただろう。
でも、彼女はまだ東京にいる。
電車に乗れば会える距離にいる。
スマホを見る。
通知はない。
西野さんとのトークルームは、一月の『準備、頑張ってください』という僕のスタンプで止まったままだ。
もし僕が、「転勤前に思い出作りましょうよ」と強引に誘っていたら?
今日、この手の中に、彼女からのチョコレートがあっただろうか。
義理でもいい。友チョコでもいい。彼女が僕のために選んでくれた何かが、ここにあっただろうか。
そんな「もしも」の未来を、僕自身が「事なかれ主義」という名のハサミで切り捨てたのだ。
*
定時で会社を出た。
どこもかしこもカップルだらけだ。
その光景から逃げるように、僕はいつものコンビニでおにぎりと缶チューハイを買い、アパートへ帰った。
部屋は冷え切っていた。
暖房をつけ、テレビをつける。
バラエティ特番をやっていた。人気芸人たちが、バレンタインの失敗談を面白おかしく語っている。
『いやー、学生時代に下駄箱開けたら手紙が入ってて! 期待して開けたら果たし状だったんですよ!』
スタジオがドッと湧く。テロップが踊る。
プロの芸だ。面白い。
――面白い、はずだ。
僕は缶チューハイを煽りながら、画面をぼんやりと眺めていた。
口角が、上がらない。
頭では「ここが笑いどころだ」と理解しているのに、心がピクリとも動かない。
以前はどうだった?
一人で見ていた時も、それなりに笑えていたはずだ。
それがどうだ。今はまるで、色のない映像を見せられているようだ。
「……そっか」
不意に、気づいてしまった。
西野さんと出会ってからの数ヶ月。僕が楽しかったのは、漫才が面白かったからだけじゃない。
「ねえ、今の聞いた?」と共有できる相手がいたからだ。
隣で彼女が、涙を流すほど笑い転げている姿を見て、つられて笑っていたからだ。
笑いとは、共鳴だ。
一人で完結するものじゃない。誰かと波長が合った瞬間に生まれる、温かな火花だ。
その火花を失った今、僕の世界は以前の「灰色」に戻ったのではない。
一度「極彩色」を知ってしまった分、より深く、暗い「漆黒」に沈んでしまったのだ。
五月になれば、彼女は本当にいなくなる。
そうなれば、この漆黒が一生続くことになる。
「現状維持」を選んだつもりだった。でも、僕が選んだのは「緩やかな後退」と「孤独への回帰」でしかなかった。
日付が変わる頃、遠くで電車の走る音が聞こえた。
バレンタインが終わる。
片手に持っていた缶チューハイを机に置き、テレビを消す。
何の事件も起きず、誰とも繋がらず、平穏無事に過ぎ去った一日。
それがこれほどまでに虚しいものだとは、三十年も生きてきて、初めて知った。
(第14話へ続く)




