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第12話 現状維持バイアス



 人間には『現状維持バイアス』という心理が働くらしい。

 未知の変化によって得られる利益よりも、変化によって失うかもしれない損失の方を過大に見積もり、現在の状況に固執してしまう性質のことだ。

 十二月下旬。仕事納めを終えた東京の街は、年末特有の浮足立った空気に包まれていた。

 僕は、その心理学用語を頭の中で反芻しながら、西野さんとの待ち合わせ場所へ向かっていた。

 あの日、彼女から転勤の話を聞いて以来、僕たちはお互いにその話題に触れないまま、当たり障りのないLINEを続けていた。

 『M-1の決勝、見ました?』『見ましたよ、優勝コンビ最高でしたね』

 まるで腫れ物に触らないように、お笑いの話だけをして、核心を避けてきた。

 今日は「忘年会」という名目の食事だ。

 おそらく、彼女が福岡に行く前の、最後の気の置けない食事になるかもしれない。

 

(……これでいいんだ)

 僕はコートの襟を立てながら、自分に言い聞かせる。

 もし仮に、僕が彼女に「行かないでほしい」と言ったらどうなる?

 彼女のキャリアを奪う責任を、僕が負えるのか? そんな甲斐性は僕にはない。

 

 じゃあ、「遠距離でもいいから付き合おう」と言ったら?

 月に一度会えるかどうかの距離。会えない時間は不安になり、すれ違い、やがて疲れて別れる未来が目に見えている。

 そんな泥沼の結末を迎えて、今の「楽しい思い出」まで汚してしまうくらいなら、このまま綺麗な友達関係で終わらせる方がいい。

 変化は怖い。失うのは怖い。

 だから現状維持を選ぶ。それが「大人」の判断だ。

 そう理屈で武装して、僕は店に入った。

             *

 予約していた焼き鳥屋は、忘年会シーズンのサラリーマンたちで賑わっていた。

 西野さんは先に着いていて、文庫本を読んでいた。僕に気づくと、パタンと本を閉じて微笑んだ。

「お疲れ様です、原田さん。年末までお仕事、大変でしたね」

「西野さんこそ。……乾杯しましょうか」

 ビールで乾杯する。

 いつもなら、ここから最近見たテレビの話やお笑いライブの感想で盛り上がるはずだった。

 でも今夜は、会話の端々に妙な間が空く。

「……あ、このつくね、美味しいですね」

「ですね。軟骨が入ってて」

「……」

「……」

 沈黙が怖い。

 僕が必死に話題を探していると、西野さんが不意に口を開いた。

「会社への返事、年明けの二週目までにしなきゃいけないんです」

 心臓がドクリと跳ねた。

 彼女は焼き鳥の串を見つめたまま、独り言のように続けた。

「向こうに行ったら、最低でも三年は戻って来られません。……三年って、長いですよね」

 彼女は僕を見上げた。

 その瞳は、明らかに何かを待っていた。

 「行かないで」という言葉か、「待ってる」という言葉か。

 三年という月日の重さを、僕と一緒に背負ってくれる覚悟があるのかを、問われている気がした。

 僕は、ビールジョッキを持つ手に力を込めた。

 喉元まで出かかった感情を、冷たい液体と一緒に流し込む。

「……三年なんて、あっという間ですよ」

 僕は笑った。引きつっていなかっただろうか。

「福岡はご飯も美味しいし、西野さんならすぐ馴染めますよ。東京から応援してますから。……たまには、お土産話でも聞かせてくださいよ」

 決定的な一言だった。

 僕は彼女を「送り出す側」のポジションに立つことを選んだのだ。

 西野さんの瞳から、すうっと光が引いていくのが見えた。

 失望、あるいは諦め。

 彼女は数秒間僕を見つめ、それからふっと小さく息を吐いて、寂しげに微笑んだ。

「……そうですね。美味しいもの、たくさんありますもんね」

 彼女の声は、どこか遠くから聞こえるようだった。

「原田さんがそう言うなら、私も……覚悟、決めなきゃですね」

 その言葉が、僕への「さよなら」の合図のように聞こえた。

             

 店を出ると、粉雪が舞っていた。

 酔いも醒めるような寒さだった。

「じゃあ、私はこっちなので」

「あ、はい。……良いお年を」

「原田さんも。良いお年を」

 いつもなら「次はいつにしますか?」と続く会話がない。

 彼女は一度だけ振り返り、軽く会釈をして、人混みの中へと消えていった。

 僕はその場から動けなかった。

 現状維持を選んだはずなのに。一番傷つかない道を選んだはずなのに。

 なぜだろう。

 胸の真ん中に、巨大な空洞が空いたような喪失感がある。

 ポケットの中でスマホが震えた。

 『スニーカーズ』の公式アカウントからの通知だった。

『来年も走り続けます! 応援よろしく!』

 彼らは前に進んでいる。

 泥臭くても、傷ついても、変化を恐れずに。

 

 それに比べて、僕は何だ。

 傷つかないために彼女の手を離し、たった一人で「現状」という名のぬるま湯に浸かっている。

 舞い落ちる雪が、僕の肩に積もっては溶けていく。

 その冷たさだけが、今の僕に残された唯一の現実だった。


(第13話へ続く)




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