ダム防衛3
敵の船団が、すぐそばまで迫っている。
「あれに上陸されたら、間違いなく壊滅するぞ。追い立てられた先に、銃兵が待ち伏せているのがオチだ。そうなる前に逃げろ!」
「退却!」
もはや、恥も外聞もかなぐり捨てての逃亡だった。ゲオルクはそれを、冷めた目で見ていた。
ともかく、彼らを無事に逃がせば目的は達せられる。あとは、自分達が逃げる算段をするだけだ。
逃げる残党軍を途中まで護衛し、十分と判断したところで戦場に舞い戻った。
戻ってみて、違和感を覚えた。船団の敵兵が、上陸していない。ダムを占拠していた部隊が逃げたからだろうか。しかし、それならなおの事、水上戦力は働き所が無いはずだ。
何か液体を、船から川に流していた。水面の照り返しがおかしい。
油を流していると気付いて、肌が粟立った。
「潜水部隊を呼び戻せ!」
叫んだが、水中に伝える方法が無い。
火が放たれた。川が、燃える。
小舟が、燃える油膜の無い所に移動し、魚でも突くように水面を突き始めた。魚よりずっと大きいものが、次々と浮かんでくる。
「くそっ」
ただ見ているしかできなかった。騎兵は、弓矢を持っていない。弓矢を備えた歩兵は、総督府軍の猛攻にさらされて、動く事ができない。
潜水部隊は切り捨てるしかない。四十人にも満たない数だ。大きな打撃ではない。そう自分に言い聞かせた。
歩兵は、守りを固めて耐えている。少しずつでも下がりたいところだろうが、崩されないためには、その場に踏み止まるしかない、という情況だ。
介入する。敵歩兵の戦列へ、矢のように突き進む。すぐに、騎兵が妨害してきた。そのまま駆け合いに持ち込む。
騎兵を引き付けただけでも、相当楽になるはずだ。
しかし、シュピッツァー軍の猟兵という、厄介な相手がいる。銃兵は密集隊形の天敵と言って良い。
猟兵が現れたらすぐに追い散らせるように、深入りしないように気を使いながら駆け合いを続ける。
こちらが深く踏み込んで行かないので、敵騎兵はたびたび歩兵の方を狙う動きを見せる。こちらとしては、それを遮るように動くしかない。
防戦一方。主導権を奪われ、振り回されている。数で劣るこちらには、苦しい情況だ。
歩兵と合流した。歩兵だけ、騎兵だけで戦い続けても、ジリ貧だ。不利な情況で一つにまとまる危険はあるが、敵の思い通りに動いていては、勝ち目はない。
あえて不利に飛び込んででも、敵の予想を裏切る。賭けだが、賭けないままじわじわと負けていくよりは良い。
「団長。このままでは振りきれません」
ゴットフリートが言う。
「分かっている。ダムだ。あそこまでなんとしても耐えながら退け」
「俺が連中に一撃加えますので、その隙に下がってください」
「無駄だ。あれは破れん。破られない事に重きを置いた陣を敷いている。ゆっくりと締め上げる気だ」
ゴットフリートが黙り込む。聞こえはしないが、奥歯を音が鳴るほどに噛みしめた事は分かった。
「根競べだ。向こうも、こっちが自棄になって突撃した方が、ずっと楽なのだ」
「分かっています。耐えられるだけ、耐えます」
「それでいい」
互いに歩騎混成の軍。こうなると、数の差が大きくものを言う。動きで翻弄するという事が出来ないし、陣形の優劣を競うという段階は、とうに過ぎている。
加えてゲオルク軍は、姿を見せずどこかから隙を狙っている猟兵も警戒しなければならない。側背の脅威の有無は、大きい。
「猟兵は、姿を見せないな」
こちらも警戒をしている。銃兵なので接近戦ができないなどの事はあっても、その気になればもっと積極的に攻撃してくることは可能なはずだ。
この場合、それができない理由は思い当たらないので、単純にリスクを負ってまで積極攻勢をしたくない、という事だろう。あくまで義理の出兵、という事か。
あるいは、完全に一方的な情況にならない限り、動くつもりが無いのか。ダム防衛に当たっていた残党軍への攻撃は、完全に一方的な攻撃だった。
戦と言うよりも、狩りだ。確実に獲物を仕留められる情況でのみ動く。そういう腹積もりなのかもしれない。
どちらにせよ、攻撃が無いのはありがたい事だ。だが警戒は怠れないし、こちらが弱れば見逃す事はないだろう。敵に救われた、と言うには足りない。
敵に救われたというなら、船団の兵が上陸してこないのが救いだ。川に火を放ったので、手近なところに上陸してこちらの背後を襲う、という事が出来ないでいる。
上陸しても五十に満たないだろうが、後ずさる方向の小石一つが、致命傷になる事もある。
敵の騎兵と歩兵の一部が、前に出てきた。こちらを包囲しようという動きだ。
騎兵で突っ込めば、前に出てくる歩兵の隊列を、容易く突っ切る事ができる。多分、それを誘っている。
突っ切ったところで、敵の騎兵が待ち構えている。そんなところだろう。まず騎兵を討ってしまえば、歩兵のみならどうとでもできる。そんな考えだ。
下がりながら歩兵を横に広げた。これで包囲はできない。陣が薄くなったと見て、迂闊に突っ込んでくれば、それこそ騎兵の餌食にしてやれる。
流石に敵もその愚は冒さず、進みながら隊列を整え直した。
「そろそろダムだ。ダムまで近づいたら一隊を送り、水門を全開にしろ」
「決壊させる?」
「そうだ。今の水量ならまだ、州都は多少浸水する程度で済むだろう。騎馬隊は、敵を引き付ける」
再び歩兵と別れ、敵に正面から突っかけると見せて、直前で反転する。狙い通り、敵の騎兵も出てきた。
猟兵がどう出るか気にかかる所だが、気に掛けている余裕はない。全力で駆け合いをする。相手に、余計な事を考える余裕を与えない。
そうでなければこちらの狙いを読まれ、妨害される。もし失敗すれば、大きな犠牲を出す事を覚悟しなければならない。
駆け合いは、長くは続かなかった。あるいは長かったのかもしれないが、ゲオルクにはあっという間の事としか感じられなかった。
低い地鳴り。自身の様に、地が微かに揺れている。水音は、水音とは思えない、何か凶悪な響きとして聞こえた。
一段高くなっている場所へ駆け上がる。解き放たれた膨大な水が、川から溢れ、辺り一面に広がっていく。
船団は下流へ押し流されて行った。敵の歩兵も、算を乱して退いて行く。呑みこまれるほどのものではないが、それでも恐怖は大きいだろう。高台から見ているゲオルクでさえ、震えを抑えられなかった。
「よし、退却の鉦を鳴らせ」
溢れ出た水に因り、辺り一面は泥濘と化している。重量のある騎兵は、歩兵以上に動きを制限される。しばらくこの一帯では、騎兵は使えない。猟兵もだ。
騎兵の追撃が無ければ、十分に逃げ切れる。
「団長、あれを!」
兵が指差す先には、人が打ち上げられていた。まさに打ち上げられたという感じで、ほとんど動かない。しかし中には、僅かに動いている者もいる。
潜水部隊の兵に間違いなかった。すぐに、まだ息のある者を探す。
「団長! デモフェイ殿が!」
「生きていたか!」
泥水を蹴散らして、駆け寄った。息を呑む。デモフェイの肩の下あたりに、穴が開いている。
「デモフェイ!」
「団長」
肌が青白く、抱き起すと体が冷たかった。
「まるで魚の様だぞ」
「魚か。そりゃあいい。魚に生まれ変わったら、漁師の網を潜り抜けて、嘲笑ってやります」
「お前なら、川の主になれるだろうよ。煮ても焼いても食えない、大主だ」
「俺は、ずっと漁師をやっていられれば、それで幸せでした」
目の焦点が、すでに合っていなかった。
「でも、団長達と一緒に戦をやるのも、悪くは無かったです。楽しかった」
デモフェイが目を閉じる。呼吸がか細くなっていく。唇が、僅かに動いた。
「なんだ?」
「カニ漁の籠、仕掛けねえと」
糸が切れた様に、デモフェイの体から力が抜けて行った。
「水葬にしてやれ」
全ての亡骸を弔ってやる時間は無い。それでもデモフェイだけは、そうしてやりたかった。
川の底で、カニの餌になるのだろう。
終わってみれば、双方共にそれ程の被害を出した訳でもない戦だった。
州都フリートベルクは、二万戸が床下浸水する騒ぎになったが、死者は出なかったらしい。
ゲオルク軍も、戦死や退役に因る欠員は、補充でほぼ埋められる程度の犠牲で済んだ。
ただ潜水部隊だけは、四人生きて戻っただけだ。犠牲のほとんどが、潜水部隊の戦死者だ。
報酬の取り立ては万全だった。流石に初めに提示された額通りとはいかないが、八割方は引き出せる見通しだ。
収支で言えばプラス。失った物よりも、得た物の方が多い。軍の運営と言う観点から見ればだ。
替えの利かない大きなものを失った。そういう思いに囚われるのは、何度目だろうか。
夕日の赤さが、酷く物悲しく思える。秋が、もうすぐそこまで来ていた。
「団長」
後ろから声を掛けられた。
「ゴットフリートか。どうした。何かあったか?」
「いえ、何も無いのですが、お背中を見ていたら、思わず声を掛けていました」
「そうか、まあいい」
自分の背中は、そんなに悲哀を感じさせたのだろうか。昔は、戦友が何人倒れても、前を向いて戦えていた。喪失感に問わられるなど、いつからだろうか。
「老いたのかな」
「御冗談を。団長はまだ、三十代を折り返してもおられません」
確かに、肉体的にはまだ現役だ。十年前に比べれば衰えたとは言え、老兵扱いされるような歳でもない。
精神的な部分が老いた。あるいは、疲れたというべきか。戦の最中は気が漲っていても、戦の後になると、疲労感が強い。
これが、誰でもそうなる事なのか。それとも自分だけに起きている事なのか。こういうとき、ディアナ・ワールブルクの様な、頼れる年長者がいれば良いと思う。
「ゴットフリート。たまには稽古を着けてやろう」
「団長。私ももう、子供ではないのですよ。立場というものもあります」
「そういう小生意気な物言いが、気に入らん。たまには、己の未熟さを思い知れ」
「参ったな」
困ったように笑いながらも、ゴットフリートは調練用の木剣を持ってくる。
打ち合った。初めは渋々付き合っていたゴットフリートも、こちらが本気で打ちこんでいると分かると、だんだんと本気を出してきた。
ゴットフリートがようやく本気を出したので、こちらも本気を出す。今までは、本気の様に思えるだけだ。
本気の打ち合い。気は充実している。体も、二十代前半の体力は無い分、技の切れはある。読み合い、駆け引きもできる。勘も冴えている。
ゴットフリートの剣を弾き飛ばし、これでもかと言うほど強烈に打ち据えた。ゴットフリートが一瞬絶息する。
「部隊指揮にかまけるあまり、鈍ったのではないか?」
「ひでぇや」
「なんとでも言うがいい。ただし、勝ってからな」
片付けておけ。そういうつもりで、木剣をゴットフリートへ放った。
疲れは無い。ただ、心地良さだけがある。




