02
「あ、はい。大丈夫です。落ち着いてブラウ。怖くないわ」
女性が立ちあがろうとする馬をなだめ、照れくさそうに頬を染めた。実際の年齢はわからないが、見た目は自分と同じように見える。
(それにしても変わった刺繍ね)
ホーン国で流行っているのだろうか。袖口の広い緩やかな黒地の上着には白いひし形の幾何学模様の刺繍が施されている。黒いスカートの裾にも上着と同じような模様があった。女性は刺繍を指でなぞりながら恥ずかしそうに俯く。
「その、蛇に驚いて方向転換をしようとしたら誤って落馬してしまって……」
「「蛇!」」
カミラと声が重なる。だが声音に含まれた感情は正反対のものだった。カミラが歓喜の表情できょろきょろと草が生い茂る地面を見回す。それを横目にソフィーは慎重に足をあげ、侍女のそばから離れようとした。
「あ、蛇はもうどこかにいってしまったので大丈夫ですよ」
彼女の一声で踏みとどまる。ホッと息を吐き出すと、カミラはしょんぼりと肩を落とした。
「そうなんですか。残念です」
「え?」
「あ、いいえ」
訊き返してくる女性に侍女が何事もなかったかのような顔で首を横に振った。
「それよりお怪我をされてらっしゃるのですか?」
黒いブーツが脇によけてあった。素足の女性に、カミラが痛ましそうに眉を下げる。ソフィーもつられるように眉間に皺を寄せた。
「あ、はい。落ちた拍子に足をひねってしまったらしくって……幸いなことに他の場所は平気なんですけど」
「ちょっと失礼します」
馬が勝手に走り出さないよう、馬車をとめていたフィンが声ともに前へ出てきた。
彼女の足を診るつもりなのだろう。まっすぐに伸びた男性らしい指先が女性の白い肌に触れる。ただの診療だというのにそれが妙に艶っぽく映り、ソフィーは目を逸らす。
(あれは医療行為よ。ただの親切であって、フィンに邪な考えなんか見えないでしょう)
ソフィーは自身に言い聞かせた。
『婚約の儀』の真似事をされてからというもの、なぜか彼の指先にばかり目線がいってしまう。ドキドキする胸を鎮めようと深呼吸を繰り返している間に触診が終わったらしい。
「骨は折れていないようですね。ただやはりこの足で馬に乗るのは難しいでしょう」
フィンがすっと立ちあがり、淡々と報告してきた。診断の結果が思ったよりひどいものではないとわかり安堵する。だが馬に乗れないのは不便だろう。ソフィーは女性へ提案した。
「それは大変ね。よろしければわたくしどもの馬車で送らせていただくわ」
「ありがとうございます。ですが大丈夫です。先ほど魔道具で兄を呼びましたので」
「魔道具ですか」
「ええ。これです」
カミラの問いに女性が胸元に垂れ下がっていたペンダントを持ちあげて見せた。金で縁取られたひし形のペリドットが日の光に反射する。
「この対となるものが家にありまして、離れていても石同士が共鳴して意思疎通ができるんです」
「すごいですね。さすがはホーン国です」
「そうね。王国ではまだ普及されていない魔道具じゃないかしら」
ソフィーは、感心する侍女と一緒になって女性のペンダントをまじまじと観察した。普通の宝石よりも多少大振りのようにも見えるが、ただの綺麗なペンダントにしか見えない。
(この石の中に魔方陣が組み込まれているのよね……)
不意に咳払いが聞こえ顔をあげる。知らないうちに近寄りすぎていたようだ。頬を微かに引きつらせ苦笑している女性と目が合い、ソフィーは慌てて身を起こした。
「最近開発されたものですから……あっ! 兄がきてくれたようです」
女性が遠くを見つめる。それにつられる形でソフィーも視線を向けた。しかし、何も見あたらない。首をかしげると、ふいに近くの地面に陣が描かれる。淡い黄色の光が放たれた次の瞬間。光は竜巻のように渦を巻き、上へ霧散した。同時に中から人が現れる。
女性と同じように袖口の広い、ゆったりとした黒い服にはやはり白いひし形の幾何学模様の刺繍がされていた。ただ女性とは違い、黒いズボンには刺繍がされていないようだ。
(あの方がお兄様なのかしら?)
身長はカミラよりも少し背が高いくらいだろうか。細い体躯だが、しなやかな足取りで歩み寄ってくる。
(白妖精族の方って男女ともにお綺麗な人が多いと聞いていたけど、本当だったのね)
ソフィーは柔和な笑みを浮かべやってくる白妖精族に見惚れながら、はたと気づいた。
(わたくしの婚約者になる人が白妖精族の方って可能性もあるのよね)
自分よりも数倍顔が整っている白妖精族が婚約者候補。しかも、寿命もまったく違う。
(たしか白妖精族の方は人族の十倍以上長く生きるのよね?)
もし白妖精族の人と夫婦になったら、皺だらけの自分の隣に変わらない若さと美しさを保っている夫が立つということだろうか。その姿を想像しソフィーは愕然とする。
(でもあんな優しい笑みを向けてくれる方なら、おばあさんになってしまったわたくしも変わらずに愛してくださるかもしれないわ)
それはそれでありだ。ソフィーが一人納得していると、男性にしては少し高めの声が聞こえてくる。