2 婚約の行く末
イチヤ嬢――ミオ・イチヤとの面会は心の底から気が進まなかったが、遅かれ早かれ解決せねばならない問題もある。
頭をよぎるのはもちろん、ミカサ邸でのやり取りだ。
――いいですよ、結婚しても。
疲弊する日々が続き、自暴自棄になっていた自覚はある。
ルーフェに関して一切の口をつぐむこと――そう条件をつけたにしろ、結婚を了承してしまったことを思い出してハシバは深いため息をついた。
「……なかったこと、にはできないよな……」
口約束とはいえ、約束は約束だ。
希望があるとすれば、ミオに幻滅されてしまったか、もしくは一の家が反対にまわった要因として条件を破るようなものが含まれていること。
――頼むからそのどちらかであってほしい。
この期に及んで往生際の悪いことを考えていたハシバにミオが告げたのは婚約の解消だった。
「あたしはね、他の女にうつつを抜かしている人と結婚するつもりはないの。ちゃんとあたしだけを見てくれないと」
ぴんと背筋を伸ばし、澄ました顔でミオは口を開く。
静養していた部屋ではなく応接室へ場所を移して出迎えたミオは、相も変わらず美しかった。艷やかな黒髪に、きらきらと輝く群青色の瞳。すらりと伸びた四肢に目鼻立ちは華やかで、容姿端麗とは彼女のためにある言葉だと囁かれるのも無理はないだろう。
魔法の才にも秀でた五家自慢の才女は、巫子という誇るべき立場を失ったハシバへ憐れみにも似た視線を向けた。
「そう言ったところで、ひとつも悲しそうな顔は見せてくれないのね」
「いやその…………驚いてはいます」
「驚いただけ? どうしてそうなったのか、理由を聞きたくはなくて?」
「もちろん、聞かせていただけるなら聞きたいです」
どんな心境の変化でそうなったのか、気になるところではある。
ただそう安々と聞いていいものなのかはばかられたために口にしなかっただけで、聞けるものなら聞いておきたいというのが正直なところだ。
若干前のめりとなったハシバを見て、ミオは満更でもなさそうに息を吐いた。
「誤解しないでほしいのはね、お父様を説得するにあたって彼女のことは一切話していませんの。ただ、反対にまわるには『婚約の解消』が絶対条件だと言われてしまって」
これまでミオの望みはなんでも叶えてくれたというのに、ミオの父――イチヤ当主の決意は固かった。一歩も引かないイチヤ当主と、『結婚相手は自ら決める』という約束を反故にされたミオの睨み合いは日をまたいで続いたという。
娘の将来のためだという父の気持ちを、ミオはこれっぽっちも理解できなかった。
まして、クロセの巫子という後釜まで用意されていてはミオの気持ちを蔑ろにするにもほどがあるだろう。
「絶対に譲りたくなかったのだけど、『あえて負けてやる』っていうセイジの言葉を思い出したのよ」
我を通すばかりでは、得られないものもある。
時に譲歩することで相手にもこちらの言い分を呑ませることができるということをミオはセイジ邸に居候するうちに学んでいた。
「だからここはあえて引いて、お父様から反対の票をもぎ取りましたの。同時に、次こそあたしの結婚相手に対して一切口出ししないことを約束してもらいました」
二度と約束を破られてはたまらないし、クロセの巫子との見合いもまっぴらごめんということもあり、一筆書いてもらったとミオはご満悦だ。
この時まではイチヤ当主は見合いが流れたことを残念がっていたそうだが、蓋を開けてみれば断って正解の英断だとミオを褒めてくれたという。
ソウヤ・ゴジョウは先代当主の急逝に関与していた。そのソウヤの息がかかったクロセと縁を結ぶことなどあってはならないことだった。
「そういうわけで、改めて。ミツルくん、あたしと付き合ってくれませんか?」
「――…………は?」
何がそういうわけかさっぱり分からなかった。
話の飛躍っぷりに目を白黒させるハシバに、ミオははにかんだような笑顔を向けた。
「まだ分からない? 婚約は白紙に戻しただけで、結婚そのものを反対されたわけじゃないの。つまり、一から関係を築く分には何の問題もないということよ」
「待ってください。さっき、好きでない人との結婚するつもりはないと……」
「ええ。結婚してもいいと言われても、ちっとも嬉しくなかったのよね。気持ちのない結婚はむなしいだけだと思い知らされてしまって。……だから、あたしのことを好きになってほしいの」
至って真面目に、まっすぐにミオは言葉を紡ぐ。
いかにその場を切り抜けるかを考えていたハシバにとって、その姿はあまりにも眩しい。うまい返しなど思いつかず、ただ愚直に答えることしかできなかった。
「……すみません。貴女と付き合うことも、まして結婚もできません」
「理由を聞いてもよくて?」
「…………他に慕っている方がいます」
「そう。……あなたもあたしとの約束を破るというのね?」
すっとミオの目が細められる。
用意されていたカップに細い手が伸ばされるのを見て、ハシバは反射的に目をつぶった。
「――言い訳のひとつでもされたなら幻滅できたというのに、ままならないものね」
「……え……」
おそるおそるまぶたを開ければ、凛とした姿勢でカップに口をつけるミオと視線が合った。
「ミツルくんのそういう、口先だけのおべっかを言わないところに惹かれたの。この人なら、あたし自身を見てくれると思って。やっぱりあたしの目に狂いはないわね」
「……ありがとうございます?」
褒められていると思うのだが素直に受け取るのもどうなのだろうと疑問系になってしまった。
思いがけずミオの本音に触れてしまったようで、なんとも居心地が悪い。
気付けばすっかりミオのペースに乗せられてしまっている。いつもの、ミオの独壇場だ。
「だからね、約束を破ることを少しでも悪いと思ってくれるのなら、あなたを好きなままでいさせてほしいの」
花が綻ぶような笑顔で告げられては、否定などできるものではない。
まして、人が誰かを想う気持ちそのものを打ち消す権利は誰にもないだろう。
「……イチヤ嬢のお気に召すままに」
「ありがとう。それでね、今後の話なのだけど……春から魔導師補佐となるにあたって、ミツルくんについてきてほしいのよ」
「え? いや、僕はもう巫子ではないので……」
「知っていますわ。でもさっき、あの女はあなたを見ようともしなかった。それが答えではなくて?」
「それは……」
違う、と言い切れないのがつらいところだ。
レティスを迎えにセイジとミオが訪れた際、少しだけルーフェと顔を合わせる機会があった。こちらを一瞥しただけでそっぽを向かれてしまったところをしっかり見られていたらしい。
もちろんこのままで終わらせるつもりはないのだが、それをミオに言ったところで仕方ない。
口を噤んだハシバを見て、ミオは満更でもなさそうに話を続けた。
「元々伴侶として来てもらうつもりでしたから、巫子かそうでないかは些細なことでしてよ。伴侶が不服なら側近としてでもいい。ちゃんとした席を用意すると約束しましょう」
「……せっかくの申し出ではありますが、」
「待って。まだ話は終わっていなくてよ」
反射で誘いを断ろうとしたハシバを制し、神妙な面持ちを浮かべるミオ。
「おそらくだけど、これから五家と神殿は融和の道を辿ることになるでしょう? あたしと共にいれば、その架け橋になれる。おぼつかない魔導師殿を支えるにはこれ以上ない話だと思うのだけど」
「……」
「返事はすぐにとは言いませんわ。そうね、おそらくセイジもミツルくんを引き抜きに来るでしょうから、まずは断る口実に使ってちょうだい」
おどけたように言って、ミオはふわりと笑ってみせる。
その後、食の好みや好きな色といった些細なことから果ては服のサイズといった何に使うんだという情報までありとあらゆる質問責めをして、満足そうにミオは帰っていった。
「――今後の話、か……」
ミオと話し疲れたものの幾分体力も戻ってきたということもあって、ハシバは静養していた部屋ではなく久方ぶりに自室へ戻った。
約一年放置されていた部屋は手付かずのままで、所々に大きな埃が目立つ。よどんだ雰囲気はそこまでないことから、時々空気の入れ替えはされていたのだろう。
考え事をするには、身体を動かすに勝るものはない。
ちょうどいいとハシバは腕まくりをして部屋の掃除に取り掛かる。
今後の進退について、実のところはまだ未定だった。
神殿に残るか、出て行くか。
前者であれば、容易に叶えられるだろう。レティスはもちろん、あのマナですら残ってもいいと言っていたくらいだ。ただ、まわされる仕事を思うとほの暗い気持ちになるというだけで。
そして後者となるなら、働き先を見つけなければならない。
まず間違いなく四の家の監視が付くハシバを雇ってくれるところとなると難易度が跳ね上がる。神殿を出るのならば、ミオかセイジの誘いに乗るというのが丸いだろうことはハシバにも分かった。
――正直なところ、神殿に残りたくはない。
たった一人の血縁であるレティスの助けになりたいという気持ちはある。
シオンの処遇についても未定な状況に加え、クロセの件で数人巫子が免職されるとも聞いた。その上ハシバまでいなくなるのは人手不足に拍車をかけることだと分かっていても、だ。
「ふぅ……」
埃を払い、寝具を清潔なものに取り替えてようやく人心地つけた気がした。
ベッドに腰を掛け、ゆるく息を吐く。
ゆっくり室内を見渡したハシバの視線が、とある棚の引き出しで止まった。おもむろに立ち上がり、引き出しの中から小さな箱を取り出す。
ごくりと息を呑み込み、蓋を開ければ記憶にあるままの物たちが顔を見せた。
カラフルな鳥を模した玩具に、親指の先ほどの大きさしかない青い魔石。木の棒やなにかの包み紙といった一見がらくたにしか見えないような物まである。
魔石を除けば、それらはすべて幼い頃にルーフェにもらった物だ。
距離を取ると決めたものの処分をすることができず、箱に仕舞い込んで引き出しに眠らせていた。久し振りに目にしたそれらは己の執着心の塊のようで、無意識に自嘲めいた笑みが浮かぶ。
物心ついた頃から巫子であることが日常であり絶対だったハシバは、巫子でない生き方を知らなかった。そもそもこれまで神殿という檻の中にいて、生き方の選択肢というものを与えられてこなかったのだ。
ルーフェに気持ちを伝える決心をした時も、その先に思いを馳せる余裕はなかった。それがここに来ていくつもの選択肢が出てきて、どれかを選べという。
押し寄せてくる現実を受け止めきれず、ハシバは途方に暮れてしまった。
――隣にいるのに魔導師とか巫子とか、関係ないと思うよ。
レティスの言葉が頭をよぎる。
箱の中へ視線を落とし、ハシバはひときわ目立つカラフルな玩具を手に取った。
鳥を象ったそれは笛で、そっと息を吹き込めばあの頃と変わらない音色がした。




