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誰が為に春を恋う  作者: 香山なつみ
第七章 レゾンデートルのありか

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18 はりぼてのお姫様 1

 むせ返るような香水と、色の匂い。

 薄暗闇の中で浮かび上がる男女の身体と荒い息遣いがシオンの記憶の底にへばりついている。


 裏三家の『黒』――クロセ家で住み込みの使用人として働いていた母。

 当時の当主のお手付きとなり、シオンを孕んだことで職も住むところも失った母は、生きるために夜職へとその身を沈めた。

 幼いシオンの預け先などなく、シオンは四六時中母と共にいた。

 小さい頃は訳が分からず、泣く母を助けようとしたこともある。客である男から殴られ、シオンを庇った母もまたひどい目にあう。そんなことが繰り返されるうちに、母の仕事中は事が終わるまで部屋の隅でじっと息を潜めるようになった。


 そんな状況が一変したのは、シオンが十を迎える頃。

 客の中には悪癖を持つ者もいる。その日の客は血を見ることで興奮するという厄介な性癖を持っていた。


「やべえ」


 焦ったような声を上げて、男は慌ただしく去っていく。そこに残ったのはいつもよりも傷ついた母。苦悶の表情を浮かべ、ベッドに横たわっていた。

 血にまみれた母を何とかしたくて、いてもたってもいられなくて。

 シオンがその身に眠る巫子の力を呼び起こしたのはそんな時だった。


 そこから程なくして、クロセの使いを名乗る者が訪れる。

 シオンをクロセの落胤として認め、引き取りたいという誘いを母は断ったがシオンは受け入れた。


 母と別れるのは嫌だ。けれどそれ以上に、今の生活が続くことに耐えられなかったのだ。


 使いの者はシオンがクロセの家に来るのであればシオンの母へ充分な支援をすると言っていた。その言葉を信じて、シオンは母と離れることを選んだ。


『シオン。あんたはね、本当はお姫様なんだよ』


 クロセの家に向かう馬車の中で、母が寝物語としてそんなありもしない話をしてくれたことを思い出す。


(あれは本当のことだったのかも)


 クロセの家に着いて早々、シオンは幾人もの大人たちに囲まれ、身綺麗にさせられた。

 良い匂いのする風呂、ふかふかの柔らかなタオル。丁寧に梳かれた髪はさらさらになって、埃や糸くずひとつついていない。襟がついた仕立ての良い服を身にまとうのは初めてで、気分はまさにお姫様だった。


 けれど浮かれた気持ちはすぐに落とされる。

 クロセには、三人の兄姉たちがいた。シオンを見る目はけして気持ちの良いものではなく、歓迎されていないのがありありと分かった。

 それでもなおシオンが引き取られたのは、巫子の力があったためだ。

 唯一の女子であるルリには巫子の力が現れず、残るは男子二人。神殿に奉公できる者がおらず、このままでは裏三家の『黒』の本家の名が廃る。

 そんな状況を打破する者として、昔屋敷から追い出した使用人の子を呼び戻すに至ったらしい。


「いいか。お前は俺たちとは違う。教育を受けさせてもらえるだけでもありがたいと思え」


 一回り年が離れた長兄のゲンはクロセであることを何よりの誇りとしていた。


「娼婦の子が巫子とは笑わせるが、お役目はまっとうできそうで良かったな」


 六つ上の次兄、スオウは下卑た笑みを浮かべながら些細な嫌がらせを沢山してきた。


「身の丈に合わない生活をさせてあげるのだから、せいぜいクロセのために尽くしなさい」


 四つ上の姉、ルリはシオンを使用人のように扱ってきた。


 ――どいつもこいつも嫌いだった。


 諸悪の根源とも言える父は病に伏せっており、会ったのは数えるほど。父娘として接することがないまま、引き取られた翌年にこの世を去った。


 これまで無縁だった勉学や社会常識、礼儀作法を一から学び、及第点をもらえるようになるまで三年かかった。

 この時で齢十三歳。

 シオンは一刻も早く伏魔殿のような家を出たかったが、神殿へ奉公に行くにはまだ早いと兄姉たちは当初難色を示していた。けれどスオウによるシオンへの度の超えたいたずらが明るみになってからは事態は一変。あれよあれよと言う間にシオンは神殿へ奉公に出されることになった。

 当主となったゲンにクロセの役に立つことを厳命され、追い立てられるように神殿へ来て。

 そこでハシバと出会い、シオンの世界は色づいていく。


 同い年のハシバは、今まで会ったことのある男の人たちと全然違った。

 まず第一に、シオンを馬鹿にしない。ひとりの人として尊重し、対等に扱ってくれる。シオンの素性を知る者からやれ妾の子だやれ不肖の子だと悪口を言われていたら、そっとその場から連れ出してくれた。自身への悪口は既に飽きる程聞いていたのでもはや鳥のさえずりと同義だったのだが、気遣ってくれるその気持ちが嬉しかった。

 巫子は嫌い。特に男の巫子なんてもってのほかだと思っていたのに、気付けばすっかり心が動かされてしまっていた。


 ――あれから十年。

 神殿は生まれ育った場所やクロセの家に比べれば天国のようだった。

 巫子の生活は取るに足らないもので、日々の役目や奉仕活動は苦にならない。使用人のいない暮らしはお嬢様育ちが多い他の巫子にとっては苦労の素のようだったが、シオンにとってはこれまでと何ら変わりないもので。

 時が経つに連れて、したたかに生きるシオンは一目置かれるようになっていく。そうなるとクロセの名は箔付けへと変わり、余計な雑音も減っていった。


 クロセとの繋がりは切っても切れるものではない。あの家に戻されるくらいならば、傀儡となる方がましというもの。とはいえ、気に食わないものへ誠心誠意尽くす気には到底なれず、半ば義務的に最低限の情報を渡すに留めていた。

 幸いにも誰にも見咎められることなく、ここまで過ごすことができた。

 多くは望まない。

 神殿という籠の中、ハシバの隣で生きていけたらそれでいい。

 このままずっと、この平穏な生活が続けばいいのに――ただそれだけを、シオンは願っていた。


「――おい出ろ。面会だ」


 そう声をかけられ、シオンは閉じていた目をゆっくりと開けた。

 眼前に広がるのは苔むした岩壁に頑丈な鉄の柵。声をかけてきたのは鎧を身にまとった屈強な男だ。

 手枷を付けられたまま離れから出て、三の家(ミカサ)の本邸へ。連れてこられたのは昨日マナ達と共に通された応接室だった。


「連れて参りました」

「おう、入れ」


 返事をする声は三の家(ミカサ)の次男坊であるセイジだ。昨日の今日で屋敷の主がカズマからセイジへ入れ替わったと見える。

 部屋に入ればセイジの隣には四の家(シノミヤ)の長女アオイがいて、何とも言えない表情を浮かべていた。


「――シオンさん」


 シオンに声をかけてきたのは銀髪に褐色の肌の少年だ。三日月の南(スーティラ)の者にしか見えないが、水の魔導師となったレティス。

 その傍らに控えるスミレを見て、シオンの胸中に苦々しい思いが広がっていく。


 シオンと同時期に奉公に来たスミレは、アオヤギの分家であるトウマ当主の娘という由緒正しい身分にある。シオンの嫌いな生粋のお姫様だ。

 シオンに向けてくる憐憫の眼差しが嫌で、あえてつっけんどんに接すれば何を勘違いしたのか、やたらと馴れ馴れしく話しかけてくるようになった。

 今もそう。穏やかな微笑みを浮かべてはいるが、その目には憐憫の光が宿っている。


「なに? 二人で私を笑いに来たの? それとも処罰の内容が決まった?」

「ううん。シオンさんを迎えに来たんだ」

「迎えに? ……あぁ、神殿で罰を与えるということね」


 自嘲するように吐き捨てれば、レティスの顔が面白いくらいに歪んだ。


「違うよ。シオンさんを巫子として連れて帰りたいんだ」

「……はあ?」


 本気で言っているのだろうか。

 取り繕うことを忘れ、素の声が漏れた。


「シオンちゃん。レティス様を困らせてはだめよ」


 たしなめるように口を挟むスミレにシオンは噛み付く。


「訳の分からないことを言うからでしょ? 魔導師を害そうとした私を巫子として、って……冗談きついわ」

「冗談じゃなくて。マナとも話して決めたんだよ」


 レティス曰く、ルーフェは無傷ということもあるが端からシオンを責める気はないとのこと。これはあくまでルーフェの存在を隠匿したいマナの思惑も絡んでいそうだとシオンは思った。

 そもそも何故、あんな凶行に及んだのか――その理由を問うてこないのは、聞くまでもないということなのだろう。

 シオンがハシバに執着していたのは水神殿にいる誰もが知るところだ。


 姿だけでもと髪を伸ばしたのも、無理やりに近い形で関係を持ったのも、ただ振り向いてほしかっただけ。不毛な恋なんて忘れるが吉と距離を置いた方がいいと唆しもした。

 そうして誰よりも近しい存在になれたと思っていたのに、あっけなくその手の内からすり抜けていってしまった。


 そんなハシバは、目覚めてはいないが容態は安定しているらしい。ほっと胸を撫で下ろすも、ハシバを刺したあの嫌な感触を思い出して身体が震え、手枷がかちゃりと鳴った。




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