九
朝、商売開始のまえに、店の者が集まったところで、店主の市左衛門が言った。
「皆、知ってのとおり一朗太の様子がすぐれない。ひと月ほど離れで臥せっていたが、回復もはかばかしくない。そこで今日より、しばらく深川の別宅にて静養させることにした」
「深川の別宅とは、どこにあるんでしょう?」
平助がお糸に小声で訊いた。お糸も小声で「さあ、あたしも知らないわ」と答えた。
「一朗太にはわたしが付き添うが、平助、おまえいっしょに来てもらうよ、いいね」
市左衛門が平助に顔を向け、うなずいた。唐突な指名に平助は驚き顔をみせた。
「はい……しかしなぜあたくしが……」
「うむ、店のものは皆おのおの仕事を抱えていて、暇がない。おまえはまだこれといって決まった仕事もないから頼むのだ」
「さようでございますか、いわずもがなでした、承知いたしました」
駕籠に乗った市左衛門と一朗太に徒歩で付き添っていったはずの平助がもう帰ってきた。
「どうしたんだい、ずいぶん早かったじゃないか」
九造が言った。すると平助はちらちらとあたりを見回すと、
「それが、一朗太様が途中で気分を悪くされまして、たまたまそこがお医者のまえだったもので診てもらいまして、そのままそこに入院養生となったわけで、わたしは先に帰ってまいりました。いえ、このことは……旦那様が、店のものが余計な心配をするといけないから、このことは番頭さんだけに伝えるように、とのことでございました」
と声をひそめて言った。
平助が廊下を歩いていると、
「あら、ずいぶん早かったんじゃないの」
と、振り返るとお糸であった。
「はい、まあちょっと、事情がございまして……」
「事情? どんな?」
お糸は興味はないがいちおう聞いてみる、という体で訊いた。しかし、その目はちらりと輝いた。
「大きな声じゃあ言えないが、他ならぬお糸さんだから教えますがね」
平助はきょろきょろと首を左右におおげさに振って、わざとらしくあたりを見回した。
「じつは一朗太さん、途中で気分を悪くなさいましてね、どうも駕籠の揺れが悪かったんだかしりませんが、病が悪化しちまったんですな。いや、静養に向かったってのに皮肉なことで。ところがなんという天の配剤か、たまたまそこがお医者のまえでしてね、そこでお医者の先生に診てもらいまして」ここでさらに声をひそめて、「大きな声じゃ言えないが、こりゃいかんということになりまして、そのままそこにお世話になることになったんで」
「お世話になるって、どういうこと?」
「つまりしばらくはそこに泊まりで養生するってことです。でもこのことは内緒にしといてくださいよ、店のものを心配させたくないからと、一朗太さんは当初の予定通り深川にいった、ってことになっておりますから」
「へーえ」
お糸は気のない返事をした。
「どこのお医者さんなの」
「いえ、さすがにそこまでは言えないのでございます」
「あらそう、別にいいけど。……でもそうするとなにかのはずみに、一朗太様がどこにいるか誰かに訊いちゃうかもしれないわね」
「それは困りますよお糸さん、言わない約束じゃないですか」
「だってどこにいるんだか知らないんだから、平助さんが教えてくれないんなら、誰か他の人に訊くしかないじゃないの」
「ああ、こんなことならお糸さんだからといってしゃべってしまうんじゃなかった」
と平助は嘆いてから、「しかたがない、だれにも内緒ですよ」
お糸はうなずいた。
「おう、平助、兄貴の具合はどうだ」
廊下で行きあおうとした丁稚に、二郎次は声をかけた。
「ああ、二郎次様、それが……」
平助はあたりをうかがって誰もいないことを確かめると、
「大きな声では言えませんが――」
と一朗太が家を出てしばらくで気分が悪くなり、すぐ近所の医院に数日間入院することになった話をした。
「でもこの話は、家のものにも店のものにもけっして言うなと旦那様に申しつけられておのでございます。ご兄弟であるあなたや三良様にも、それから店の番頭さんにもです」
と、口外無用の話もして、二郎次にも口をつぐむよう約束させた。
「だが兄貴の見舞いくらいは――」
「いえ、一朗太様は深川の別宅で静養されていることになっているのに、二郎次様にお医者に行かれては、わたくしがお話ししたことが旦那様に知れてしまいます。そうなったら、馘首になってしまいますから、どうか、お兄様をお訪ねになるのはおやめになって――」
「うるさい、おまえ、自分のことばかり考えおって。兄弟ならば見舞いに行きたいと考えるもの当然の情けだろう」
「ならばせめて、二郎次様おひとりで、お訪ねください。三良様にはどうかご内密に」
「三良か、ふん、あいつはまだ若輩だし、見舞いなど辛気くさいと考えるやつだ。それはいいだろう」
店表の千吉のところに平助がやってきた。
「手代さん、今日も手伝わしてくんなさい。で、字も教えてほしいんで」
「おや、おまえ、ずいぶんと早いんじゃないかね」
平助は千吉の横に膝をつくと、そっと左右をうかがった。
「それが、大きな声では言えませんが、途中、一朗太様がご気分を悪くされまして――」
平助は一朗太が近所でしばらく入院することを話した。
「しかしこのことは、店のものを心配させたくないとのことで、旦那様が誰にも言うなとおっしゃっていました。番頭さんにすら、です。ただ、千吉さんにはずいぶんお世話になっておりますので、こうしてこっそりとお伝えしたような次第で。だからこのことは、誰にも内緒になさってください」




