四
その晩、風呂敷包みを片手にいつもの祠の陰にいくと、たいていは先に待っている千代はいなかった。しばらく待ってもこない。新吉はあたりを見回し、それから屋内に入った。
千代の部屋のまえで、小声で声をかける。「お嬢さま、お嬢さま」
少し間があって、襖が開けられた。
「なにやってんだい、こんなとこで」
「いえ、庭でお待ちしていたんですが、ひょっとしてずいぶん先にきて、待ちくたびれて部屋に戻ってしまったのかと思ったもので……すみません、遅れてしまったようで」
しかし新吉が庭に行ったのはいつもより早いくらいだったのだが。
「もう、そんなとこで騒ぐんじゃないよ、人に見られたらどうすんだい。お入り」
千代は新吉の手をつかんで部屋に引き入れた。嫁入りまえの娘の部屋に……とためらったが、どうせ駆け落ちするのだからと素直に従う。
「今日はお月見だっただろ。疲れてもう寝てたんだよ。あんた、なんだってこんな時間に」
「寝てた、って……お嬢さん、駆け落ちの約束をしたじゃありませんか。わたしも荷物をこのようにまとめて、といって着替えが何枚かと、これまでにこつこつと貯めた蓄えを少々ですが。こうして覚悟を決めてやってきたってのに、それなのに……もう寝てたって、あんまりじゃありませんか」
だいたい月見ごときで疲れるなどという話、聞いたことがない。どこかへ出かけて、とでもいうならともかく、表庭で支度も片づけもすべて下女任せだったのだ。
風呂敷包みをかかげる新吉を、しかし千代は不機嫌な顔で見た。
「あれ、あんた、乗り気じゃなかったじゃないか」
ちゃんと見抜いていたのだ。新吉はちょっと返答に詰まったが、すぐに、
「ええ、お嬢さんだから正直に言いますがね、最初は確かに乗り気じゃござんせんでした。だって駆け落ちしたとして、それからの生活、住むところや働き口など考えると、どうしたものか、途方に暮れてしまいます。だけどお嬢さん、お嬢さんの無邪気に喜ぶ姿を見て、わたしにそこまで望みをかけてくだすってるってことを知って、わたしは感激し、そして心を決めたのです。しかしお嬢さんには、わたしの躊躇を見抜かれていたのですね。余計な心配をかけさせてしまいすみませんでした。でももう大丈夫、わたしも決心しました。お嬢さん、ここを出ましょう。出て、ふたりだけの世界に羽ばたきましょう」
「莫迦かい、あんた。現実をごらんよ。駆け落ちなんかして、いまの暮らしをあんた、あたしにさせられるのかえ。きれいなべべ着て、おいしいもの食べて、下男下女に身の回りの世話をさせて。もちろん毎日だよ」
「いえ、わたしはお嬢さんさえいれば、それで幸せなんです。やっと気づいたんですよ」
「あんたは幸せでそりゃあいいかもしれないけど、あたしはどうなるんだよ。いまと同じ生活を、あんたにまかなえるのかい」
「そりゃ、今の暮らしのような贅沢は無理でしょうが、でもわたしも人足でもなんでもやって働きますよ、きっと人並みに暮らしていけるように、身を粉にする覚悟です」
「人並み、って今から比べりゃだいぶ落ちるんじゃあないかね」
「なあに、貧乏生活なんて、ふたりでいれば気にならないし、きっと乗り越えられます」
「あたしに洗濯させたり、ご飯を作らせたりするんじゃないだろうね」
「そ、そりゃもちろん、家事は女房のつとめですから、もちろんやってもらいますとも。でもその代わり、わたしだって一所懸命働くんですから」
千代はため息をついた。
「あんたが身を粉にするのはあたりまえだろう。なんであたしまで身を粉にしなけりゃならないんだ。あたしは苦労するのはいやなんだよ。苦労なんて、カマドウマの次に嫌いなんだ。……ああ、やだやだ」
千代は自分で口にして虫の姿を思い浮かべたらしく、両手で我が身を抱え身を震わせた。
「なあに、苦労だって、ふたりでいれば気にならないし、きっと乗り越えられます」
千代はまたため息をひとつついて、
「だからあんたはそれでいいかもしれないけど、あたしはごめんだよ。そんなにやりたきゃ、あんたひとりで駆け落ちしたら?」
「そんな、お嬢さん、ひとりで駆け落ちなんてできるわけないじゃないですか。それにしたってお嬢さん、駆け落ちというのはお嬢さんが言いだしたことで、昨日はあんな乗り気だったじゃございませんか。だのにいったい、なにがあったというのです。まさか本当に、わたしと出奔するのは嫌だとはおっしゃいますまいね」
「さあ、それよ。お昼に結納と婚礼の衣装合わせをしてね、あたしもつらつら考えたのさ。もし一介の手代なんかと駆け落ちなんかした日には、こんな着物も着られなくなるし、ごちそうどころかふつうのおまんまだって満足に食べられるかどうか、わかったもんじゃない。それどころか、雨露のしのげる屋根のしたで寝ることだって覚束ない、ってね。まあ、考えなくてもあたりまえのことだったんだけどね」
新吉はあっけにとられて、ぽかんと口を開けて千代を見ていた。
「じゃあお嬢さん、駆け落ちは、し、しないってことですか」
「鈍い男だねえ。最初っからそう言ってるつもりだよ。やっぱり文造の言う通り、こう鈍くっちゃあほんと、ふつうの生活だって覚束ないね」
「まさかお嬢さん、文造に駆け落ちのことをしゃべったんじゃあありますまいね」
「へ? あんたが鈍いってのは、ただの世間話さ。駆け落ちの話なんかするわけないだろう、婚儀がだめになっちまうじゃないか」
新吉は絶句した。そのあとのことは夢中で、あとから考えても断片的にしか思いだせない。目のまえでへらへら笑っている軽薄な女が急に憎たらしくなり、首に手をかけて締めあげた。こいつのために俺はこの店を馘首にまでなったというのに、この糞アマが。つぎに覚えているのは女がぐったりとしていたこと、そのつぎに気がついたら自分の部屋で布団をかぶって震えていた。震えながらも、保身について考えていた。逃げたほうがいいだろうか。いや、そんなことをしたら自分が下手人だと吐くようなものだ。どうしたらいいだろう?
新吉が千代の部屋から転げ出て、ばたばたと廊下を駆けていってしまうと、暗がりから文造が出てきた。
「やれやれ、襖も閉めないで、がさつな奴だ。やっぱりあいつには大事な仕事は任せられないな」
文造は部屋に入って、内側から襖を閉めた。
布団のうえに、寝乱れた姿で千代が仰向けに横たわっている。文造はそれを見てちょっと顔をしかめ、それから手を伸ばし喉に触れた。脈を診るまでもなく、千代はぶるぶると体を震わせたかと思うと体全体でひどく咳こみはじめた。
「ちくしょう、新吉のやつ……あ、番頭さん……じゃなくておまえさん、だったっけ? あんたが助けてくれたの?」
文造はまた顔をしかめ、
「しかも詰めも甘い……」とつぶやく。
千代がなんのことかわからないという、きょとんとした顔をした。




