三
夜になって、天神様の裏に忍んでいくと、今日は新吉がすでに来ていた。
「お千代さん……いや、お嬢さま、聞きましたよ」
妙に恨みがましい目をしているのが、千代にはちょっと気に障った。
「そうだよ、あんたがぐずぐずしてるから、父に決められちまったんだ。だから言ったろう」
反対に責められる形になって、新吉は言葉につまった。
「もうこうなったら、ほんとに駆け落ちでもするかねえ」
「お嬢さん、それは……」
しかし千代は新吉の弱弱しいことばなど耳に入っておらず、自分の思いつきに顔を輝かせた。
「そうだよ、あんなおっさんや、わからずやの親父を出し抜いてやろうよ。無理な縁談をすすめやがったことを悔やむがいいさ」
「いや、でも、駆け落ちったってどこに……それにその後の暮らしは……」
「そうと決まったら善は急げだ、さっそく明日の晩にでも出奔しようじゃないか。ああ、もうあんたともこんなふうにこそこそ逢引きなんざしなくってすむんだよ。なんだか楽しみになってきたねえ。じゃあ、あんたも荷物をまとめておくんだよ。くれぐれも周りの連中に覚られないようにね」
逢引きもそこそこに、千代はうきうきと屋敷のうちに戻っていった。
残された新吉は、なにやら情けない、困ったような顔で千代の背中を見送った。
「お千代、ちょっといいかい」
「あら番頭さん、なんのご用かしら」
文造が話しかけてきたが、今日は機嫌よく応えることができる。駆け落ちすると決めたからには、心にも余裕のできるというものだ。
「その番頭さん、というのもそろそろやめてもらえないかね、他人行儀でいけない」
「そうかい。じゃ文造、なんの用かしら」
「そうじゃなくて、あなた、とか、おまえさん、とか呼んでもらえないかねえ」
千代は番頭から顔をそむける。嫌悪が顔に出てしまったのが自分でわかったからだ。まったく、馴れ馴れしいにもほどがある。
「そういう、けじめのないことは嫌いなんだけど」
と言ったら少しは反省するかと思いきや、
「うむ。おまえさん、というのは少々大衆的に過ぎたかな。大店浜門屋のお内儀殿には似つかわしくないな」
などと見当はずれなことを言うので、もはやそれ以上言いつのる気にもならなくなった。
「それはそうと、昨日から言おうとしていたことだが、今日は昼過ぎに、結納と婚儀のさいの着物の採寸に摂津屋から人が来るから、そのつもりでおりなさい。反物もいくつか持ってくるように言ったから、好きな柄を選びなさい。まあ、来たら下女を呼びにやるから、不用意に出かけたりしないようにな」
それだけ言うと文造は店に戻っていった。
番頭の言うなりになるのはいやだ、という思いとは別に、新しい着物、裲襠にも興味が抑えきれなくなってくる。
新吉が算盤をはじいていると、誰やら背中からのぞきこむ気配があった。
「おいおい、新吉、ここの計算がまちがえてるじゃないか」
文造が帳簿の一点に指を置いた。文造の監視のもと計算をやり直してみると、たしかに違っていた。
「ああ、こりゃすんません」
「すんませんじゃあないんだよ。おまえはこういう間違いが多いんだ。ひとっつひとつは小さくても、重なると思いのほか大きくなる」
「間違いが多いって、ははは、まさか番頭さん、いつもわたしの帳簿を検算なさってるわけじゃあないでしょう」
冗談めかして聞いてみる。
「笑いごとじゃあないんだよ、あたりまえだ。おまえの帳簿なんざ、おっかなくてそのまま使えるものか」
「え……じゃあ、任せてもらってたわけじゃあないんで? なんでそんなこと。無駄じゃあありませんか」
「おまえの勉強だと思ってつけさせてみたが、どうにもこれじゃあ頼りにならないね。もういい、明日からは利助に頼むから、おまえはもう帳場にははいらずともよいからな」
利助というのは手代ですらない、まだ丁稚の小僧だ。新吉はなんとも莫迦にされた気になった。
「ひでえじゃねえか、まったく俺を信用してなかった、ってことかよ」
つい言葉が荒くなる。
「じじつ、信用できなかったじゃないか。大きな声を出すんじゃないよ、店に聞こえたらどうする。そういう気遣いもできないから、おまえはだめなんだ」
「くっそ、ひとのことは信用しねえ、ひ、ひとのことをだめだと決めつける。てめえのような番頭のしたでやってられるか、ってんだ」
「新吉、言葉が過ぎるよ。謝りなさい」
「へ、おめえにかい、ごめんだね、やなこったい」
「あたしはゆくゆくはこの浜門屋の当主になる男だよ。言うことを聞いておいたほうがいいと思うがね」
その鼻にかけた言いかたを聞いて、完全に頭に血がのぼった。
「冗談じゃねえ、番頭どころか当主じゃあ、ますますやってられねえな」
「そうかい、ならばおまえは馘首だ。今日を限りに荷物をまとめて出ていくがいい。いや、なんならもう、今すぐ出てってもらってもいいよ」
いきなり馘首を言い渡してくるとは、さすがに新吉もややひるんだが、一方で頭の違う片隅では、妙に冷静に、この間抜けが、どうせお嬢さんは俺と駆け落ちするんでえ、ざまあみやがれ、そうと気づいてから泣いたって遅いんだからな、などと考えた。
「けっ」
新吉は顔をそむけ、乱暴に立ちあがると、ドスドスと足音も荒く手代部屋へ向かった。




