一
深川の別荘地、半田下屋敷の敷地内に半田夕之進は離れを持っていた。江戸の傾き者を気取る彼の衣裳部屋もこの離れにあった。
半田は衣服が乱雑に散らかった座敷に大きな図体を横たえていた。
「おう。なんか景気のいい話はねえか」
乾のデブがやってきた。
「あればこのようなところでのたくっておらぬ」
「ふん、そらあそうか」
乾も散らかった服を適当にのけてごろりと寝転がった。
野郎ふたりでごろごろしていてもどうしようもない、と昼過ぎにそろって出かけた。
向両国から神田日本橋へんをぶらついたが、このごろはまったく面白いことがない。ここ何年か、町人どもも避けて通るようになっていたが、半田も乾も三十路を過ぎて、そういう粋がりを喜ぶ時期は過ぎていた。
手慰み、岡場所――遊びどころにいく資金もない。ふたりはただ、だらだら、ぶらぶらと歩いた。出かけたからといってしかたのあることにもならなかった。
夕刻に戻ってくると、お伊勢が部屋で寝ていた。着物をだらしなくはだけて、よだれを垂らしている。
半田と乾は苦い顔を見合わせた。
「おい、おい、お伊勢」
乾がお伊勢をゆすると、半田が鼻で笑った。
「駄洒落かよ」
「あ?」
乾は怪訝な顔をした。「おい、おい、おいせ……ああ!」
乾はげらげらと笑いだした。「ああ、そういうことかい、こりゃ傑作だ」
半田のほうは顔をしかめた。
「ああ、待ってるあいだに寝ちまったよ。どこ行ってたんだい」
お伊勢が寝ぼけ声をだした。
「べつに、どこでもねえよ」
乾が言った。
「まあ、そらそうよねえ」
「けっ、それよりおめえこそそろそろご出勤じゃあねえのかよ。こんなとこで寝ぼけてて遅くなっちゃあ馘首になるぜ」
「フン」
お伊勢は横を向いた。
「ふ、もうなりおったのか」
半田は口の片側だけをあげる笑いかたで笑った。
「うるさいね。それよりなんか景気のいい話はないのかえ」
「あればこのような時間にこのようなところに戻ってくることがあると思うか」
「フン、そうだろうねえ、フ、フ、フ」
「おまえこそいったいなにをしに来たのだ」
「べつになにも。ほかに行くとこもないしさ」
「ふふ、まあ、そうであろうな」
そのあとは三人とも特に会話もなく、三人ともごろごろとしているだけだった。半田も乾も、お伊勢の白粉焼けした肌と酒焼けした声には、おぞましさしか感じなくなっていたからだ。素顔も見たことがない。見たいとも思わないが。
半田が乱雑な座敷で横になっているところに乾がやってきた。
「おう。なんか景気のいい話はねえか」
「あればこのようなところでのたくっておらぬ」
「ふん、そらあそうか」
乾もごろりと横になった。
しばらくして、半田が言った。
「ここでごろごろしていてもしかたがない。出かけるとするか」
支度をして、ふたりが離れを出ようとしたとき、お伊勢がやってきた。
「どうしたんでえ、こんな早くに。寝てるころだろう。ああ、飯屋は馘になったんだっけな」
早いといってももう昼だった。
「ちっ、大きなお世話だよ。出かけんのかい」
ひさしぶりに三人で町を流した。
「いま西国曲芸団ってのが流行ってるんだってねえ。ことに綱渡りが評判のようだよ」
向両国で、お伊勢がそういえば、と言った。
「へん、そうかい」
乾が面白くなさそうに言った。半田は関心がないのかなにも言わない。
「そういや、曲芸っていやあ、曲芸だか軽業だかやるやつがいたな」と、乾が思いだしたように言った。
「いたっけか、そんなやつ」
お伊勢は知らないな、という顔をした。
「ああ、いたな。たしか筋斗をきって、わざと失敗してうけていたやつだ」
半田が言った。
「ああ、そいつだ。しばらくはずいぶん景気がよかったじゃねえか」
「ああ、あたしも思いだしたよ。あれはいつだっけ。去年だったかねえ。しばらく、つってもほんのひと月かふた月くらいじゃないか」
「いや、三月は持っただろう」
三人は当の西国曲芸団の小屋の前を通り過ぎたのだが、話に夢中で気がつかなかった。
半田が乱雑な座敷で腕を枕に横になっているところに乾がやってきた。
「おう。なんか景気のいい話はねえか」
「あればこのようなところでのたくっておらぬ」
「ふん、そらあそうだよな」
乾も寝転がった。そのまま特に話も続かなかったが、しばらくして、半田が言った。
「ごろごろしていてもしかたがない。出かけるとするか」
支度をしているところに、お伊勢がやってきた。
「どうしたんでえ、こんな早くに。雪でも降るんじゃねえか」
「こんな早くって、もう昼過ぎじゃないか。――まあ、そんなことはどうだっていいんだ。こないだ、六陸の話をしただろう」
「なんでえ、ろくろっ首に知りあいなんざぁいねぇぜ」
流行の西国曲芸団の、ことに評判の綱渡りというのが、実は話のついでに出た当の軽業師だった――ということをお伊勢がどこかからか聞きつけてきたのだ。