六
小屋の真ん中を見世物客を分断するように花道が通り、それにそって上空に綱が張ってある。白い絣の袷だけ紅に染め、青い袴をはいて男のような格好をしているが髪は高島田という派手な女芸人が登壇すると、客席がどっと沸いた。
向両国の「西国曲芸団」なる興業小屋に、色吉は来ていた。六陸の小屋よりふた回りばかりも大きい。
「次なるは吹田雲之丞の綱渡りでござい」舞台袖で団長らしい男が声を張りあげると拍手が起こった。留緒も理縫も夢中で手を叩いている。羽生一家の曲芸見物に、色吉も誘われたのだ。
吹田雲之丞と呼ばれた女芸人は優雅に一礼し、顔をあげるとすぐに直立した姿勢のまま、すうっと宙に浮かびあがった。客どもがまた喝采する。
「おう、これは不思議ふしぎ」
羽生歩兵衛も手を打って喜んだ。おそらく雲之丞の背後の垂れ幕のあいだに足場が出ていて、歯車仕掛けで陰で人足が持ちあげているのだろうが、登場、礼、浮揚の呼吸が小気味よいために不思議に見える。羽生多大有が滑らかな動きでひとつ頷いた。
二間ばかりの高まに張られた綱のところまで浮きあがると、女曲芸師は遅滞なく乗り移った。そのまますいすいと綱を渡っていく。
綱の張られた真ん中あたりで、前かがみになったかと思うと、手で綱をつかんで足をゆっくりとあげていった。客たちは先ほどとは一転して騒ぐものもなく、息をのんで見つめている。とうとう逆立ちした。袴がめくれあがり、いやこの場合はさがり、足袋を履いただけの白い脚があらわになった。そのまま両足を開いてくるりと回したあと、ふたたび足を綱につけると、今度はゆっくりと上体を起こした。客がいっせいに、ほおっ、と息を吐き出した。
あと少しで向こうの端、というところで雲之丞はまた前かがみになり倒立するという動作を繰り返した。ただし今度は逆立ちで伸ばした脚をさらに前に倒していった。またも見物客は息をのむ。一回転する芸か。女芸人の体が反対側に、いまにもぽきりと折れそうなほど曲がり、もうちょっとで爪先が綱に届きそうだ、というところで雲之丞が手を滑らせた。
「あっ」「うっ」
ところどころで観客が低い呻きをあげたが、大勢は息をつめただけだった。
花道の反対の端も舞台というほどではないが広くなっていて、雲之丞はそこに背中から落ちた。と思ったらすぐにぴょんと立ちあがり、花道を舞台に向かって走り出した。走りながら前転、体をひねって後転、筋斗をきる、といった具合にくるくると目まぐるしく動いて、前方の舞台に戻って振り返って客席に一礼したときには、小屋は割れんばかりの拍手に包まれていた。
歩兵衛と娘とその子守りは帰っていったが、羽生と色吉はそのままそこいらを廻ることにした。といっても羽生の旦那がそれとはっきり指示したわけではなく、家族とは別の向きにすいすいと歩きだしたから色吉が察して、供として従ったのだった。
羽生は今日はひどくゆっくりと歩いていく。その日その日によって、羽生多大有の歩きは異なり、ひどく早足のときもあれば遅いときもある。その基準は色吉にもわからず、多大有のその日の気分によるとしか思えなかった。
そしてこの日はことのほかのんびりだった。
家族孝行ができて、旦那も気分よくぶらぶらなさってんだろう。
「これは親分、お久しぶりで」
声のしたほうを見ると、貧相な男が腰をかがめていた。はて、こいつぁ誰だったかな。
「お忘れですかい、軽業師の銀明亭六陸でさあ」
「ああ……おめえか……ずいぶんと、その、なんだ……」痩せて貧相になったことを言いそうになったが、「……地味になったもんだ、見違えちまったぜ」と、着ているものが変わった、という向きにごまかした。
「へえ、あっしもまだまだ修行の足りねえ身でござんすから」
殊勝なことを言っているが、しかし色吉は眉を寄せて渋い顔をした。
「いやあ、ごぶさたしちまって。どうです、久しぶりにそこらで一杯……いや、飯でも。あにさんには聞いてもらいてえ話もあるし」
「わりいがいま取り込み中でな。元気な姿が拝めてよかったぜ、じゃあな」
色吉がそう言うと、六陸は不審な表情をする。
「取り込み中とは、なにをなさっていなさるんで?」
「見ての通り、八丁堀の旦那の供の最中でよ」
「へ? 見ての通り、とおっしゃられても……おひとりでぶらぶら歩いてるだけじゃござんせんので?」
「なに言ってやがんでえ。旦那すいやせん、お待たせしちまって」と、羽生のほうを振り返る。「あっ、いねえ」
「色吉の親分さん、あっしが近頃どうも沈みがちだってんで、鼓舞しに来てくだすったんでやしょう」
「そうじゃねえ、旦那に付いて、通りかかっただけだよ」
「へっへっ、あにさんは昔からそうだった、変わってねえなあ」
「ちっ、おめえは外見はいろいろ変わったみてえだが、その早合点だけぁ変わってねえな」
「てこたあ、あにさん、ナシ聞いてくれんだろうな」
「フン」色吉は鼻を鳴らした。「なんの話か知らねえが、昼間っから酒のにおいさしてるやつの話なんざぁ聞くつもりはねえぜ。まず呑むのを辞めるこった、そうすりゃおれになんぞ相談しなくとも、おめえの問題は解決すらあ」
「まあまあ、あにさん、酒なんか飲んじゃいないぜ」
「お? 飲んでもいねえのにおめえ酒くせえのか。重症だな。そこまで重症だともうなにやっても無理だと思うぜ」
立ち去ろうとする色吉を、六陸は慌てて制した。
「や、つまり、ひっかけたくれえで飲んだうちに入らねえ、ってことで」
「完全に酒毒にやられちまってるな。さっきも言った通り、もう一滴も飲まねえ、ってくれえになりゃあ、なんでもうまく回るようになるぜ」
「ちっ、なあにが酒毒でえ。酒が入ってたほうが思い切りがよくなって都合がいいんでえ」
色吉は顔になんの表情も浮かべず、
「おめえ昔たしか軽業の芸に関して口出すな、みてえなこと言ってたよな。ならそれでいいじゃねえか。芸が絡んでるんならおれに言えることはねえよ。じゃあな」
と言うと、今度こそ色吉は六陸の制止を振り切って行ってしまった。
「てやんでえ、ナシ聞くくれえいいじゃねえかよ、畜生もうたのまねえ」
六陸は懐から竹筒を取り出すと、楔の口をはずし、中身をぐいっと飲んだ。




