さとり
夏も近づきだいぶ暖かくなってきたある昼下がり、色吉は水練に出かけた。
亀戸村の旦那のぜんまい小屋にほど近い中川のほとり、ひと泳ぎおえた色吉は焚火に当たっていた。川っ辺りではやはりまだ風が冷たい。
ぶるるっ、とひとつ震え、懐から竹筒を取りだした。ふだんは呑まないが、こんなこともあろうかと酒を持ってきたのだ。ひと口ふたくち飲むと、すぐに腹からあったまってくる。
「ただし、一滴でも呑んだらもう水に入るなあ御法度ですぜ」
助八の声が頭のどっかで響いてる。
はいはい、もうちっとあったまったら引きあげますよ、と想像上の助八に応える。
顔をあげると、火の向こうに異様な猿がいた。
体毛が長く、真っ黒だ。そのうえ、体がとても大きかった。色吉と同じくらい、いや、ひょっとしたらもっと大きいくらいだ。ぱちぱちと立ち昇る煙を透かして、色吉のことをじっと見ていた。
しゃべるなよ、しゃべるなよ。頼むから、しゃべらないでくれよ。
じっとこちらを見ているだけでも怖かったのに、もし人間の言葉でも話されたりした日には恐ろしさのあまり気絶するかもしれない。そうなったら取って喰われてしまう。そんなことはまっぴらごめんだった。
「おまえはいま、わしにしゃべるなと思ったな」
うわあああ。しゃべった。しゃべりやがった。しゃべりやがったうえに、サトリかよ。色吉は泣きそうになった。気絶するな、気絶するなよ、おれ。そんなことなったら取って喰われちまうぞ。
「おまえはいま、気絶したらわしが取って喰うと思ったな」
色吉は涙が目からこぼれそうになるのを必死でこらえた。違うこと考えろ、なにか違うことを。そういえば、サトリは飛騨とか美濃とかあたりの山のなかにいるんじゃなかったのか。なんでこんなとこにいるんだよ。
「おまえはいま、なにか違うことを考えてごまかそうとしたのに、ついまたわしのことを考えてしまったな」
だめだだめだ。他のことを――
「おまえはいま、女の子の顔を思い浮かべたな。かわいい娘じゃないか」
この野郎。たしか昔話じゃあ退治する方法が――
ちょうど幸いなことに酒を入れていた竹筒があった。色吉はそれをさりげなく火に落とした。
「おまえはいま、竹を焚き火で爆ぜさせればわしを退治できると考えたな」
しまった。
「おまえはいま、考えたことを失敗したと考えたな」
どうすりゃいいんだ。
「おまえはいま、なにを考えたらいいのかと考えたな」
勘弁してくれ。
「おまえはいま、逃げようと考えているな」
色吉は背後を、目の玉だけを動かしてうかがおうとした。もちろんそんなことはできなかった。
「おまえはいま、後ろに逃げようとしているな」
逃げても捕まって、取って喰われちまうんじゃないかな。
「そうだ、逃げても捕まえて、取って喰うぞ」
色吉は恐怖のあまり足はすくみ、そのうえがくがくと震えるものだからその場にへたり込みそうになるのを何とか踏ん張る。
「おまえはわしが怖くて仕方ないようだな」
サトリが、とうとう歩きだした。火をよけて、近づこうとしている。
「怖すぎて足が動かぬようだな」
笑いながらそう言い、また一歩近づいた。もう二、三歩で色吉に手が届く。
「来るな、と言われても、いや思われても行くぞ」
また一歩。
と、そのとき、焚き火のなかで竹筒が爆ぜ、ばちん、という大きな音とともにサトリの鼻に当たった。
「ぎゃっ」
という悲鳴とともに飛びすさると、
「人間というものは思っていないことをするものだ」
と言いながら駆け逃げていった。
色吉はあっけにとられてそのうしろ姿を見送るのみだった。
〈了〉




