九
このていどの小者が、まさか銀器を持っているとはグイヌイには予想外で、おまけに動作もふつうの人間よりもはるかにすばやかった。なめていたが、ただの間抜けではないようだ。
「ふふ、油断したが、とはいえもうそのような真似は許さぬ。わたしを手こずらせた褒美に、ひと息では殺さず、なぶり殺しにしてくれよう」
間抜けな小者の周りを三間の距離を保ったままぐるぐると回りながらそう言い終わると同時にグイヌイは色吉の真正面にいた。と同時にそこから小者に跳びかかった。人間の目からは瞬時に消えたように見えたに違いない。
グイヌイの目からは小者は止まって見える。まるで石像か木像みたいなものだ。
あの忌々しい十手を避けるのと、なるべく長く生かして楽しむために、グイヌイは一転、小者の背中のほうに回ることにした。
まずは逃げられぬよう、脚の腱を切ってやろうか。もとよりわたしから逃れるのは無理だが、より絶望感を与えられるだろう。
向きを変えてぐるりと大きく回り、小者の背後から足首を狙おうとしたとき。
ふと横に気配を感じ、顔を向けたグイヌイのそれは驚愕に歪んだ。
能面のような無表情で、人間がじっとこちらを見ていたのだ。その顔がまったく遠ざからないということは、自分と同じ速さで動いている、ということだ。
「え……?」
格好からすると奉行所の同心だったが、いや、こいつは人間のわけがない、何者だ。
なにやら衝撃を受けて、なにやらわからぬうちに、グイヌイはまた目のまえに間抜けな小者を見た。間抜けな目を見張っていた。
どういうことだ。
どうやら同心に首根っこをつかまれて、ひきずりこられたらしい。ほんの少しの間だが、気を失ってもいたようだ。
「旦那……」
グイヌイの姿がふ、とかき消えた、と次の瞬間には羽生多大有が大かまいたちを首を持ってぶら下げて、目の前に立っていたのだ。
多大有はぐったりとなったグイヌイを色吉のまえに置いた。
「ありがとうごぜえやす」
色吉は羽生に頭をひとつさげ、グイヌイにとりかかった。
「こいつがほんとの下手人か。ふん縛ってしょっぴいてやる」
片手に持った十手を油断なく倒れている妖怪に向けつつ、捕縄を用意する。
「ヌハイマ……」
グイヌイの声だ。羽生がよほど強く首を握ったのか、すっかり弱弱しい。
「あっ」
色吉が見ているまえで、跳んできたヌハイマの鎌がグイヌイの首を貫いた。
「この餓鬼、なにしやがる!」
ヌハイマが色吉を見あげた。
「間抜けな小者にはわからないだろうけど、我ら一族の恥をさらすわけにはいかないんだ」
思いのほか落ち着いた声で、おや、と色吉が身構えたほどだった。
「べつに死んでようが構わねえ、そいつの死骸を悪いかまいたちとしてさらすだけだ。ついでにおめえもとっ捕まえてやる」
「くそっ、おまえには人の情けってものがないのか」
「だから妖怪に言われたかないってんだよ! おめえだって、わけがあろうが小いちゃな女の子を襲った罪から逃れられると思うなよ」
「ふん、おまえなんかにぼくがつかまえられるもんか」
ヌハイマが、グイヌイの死骸とともに消え失せた。
「あっ」
色吉はあたりを見まわしたが、近くにあったはずのコヌネマの遺骸も消えていた。
「旦那」
手痛い失態に弱り顔を羽生に向けたが、多大有は静かにひとつうなずくと、踝を返して歩きだした。
「すいやせん。また手柄を取りのがしちまって」
色吉は同心の背中に頭をさげた。
しかし一方で、心のなかでは疑問が渦を巻いていた。
旦那は、ヌハイマがグイヌイを刺すのも、グイヌイを抱えて逃げるのも止められたはずだ。なぜ二度も……いや、ヌハイマがコヌネマの遺骸を、おそらくグイヌイの相手をしているあいだのどさくさに、隠したことも数えれば三度も、見逃したのだろうか。
顔をあげると、同心の背中は月明りに遠ざかって、もうじき消えそうだ。
「同情じゃな」
のちにこの話をしたときに、歩兵衛は迷うことなくそう言った。
「かまいたち――妖怪は異形なもの。そして彼奴も、異形なもの。異形なもの同士、捕えたり、さらし者にするのが忍びなかったのじゃろう」
〈了〉




