十一
昼過ぎから小雨だが、ぽつぽつと降りだしたので、屋内の洗濯土間で水を使っていると、平助がやってきた。
「なあに、また来たの。なにか言いつけられてたんじゃなかったの?」
「はい、文字と数字の読み、まずは数字の読みを覚えているのですが、慣れぬことゆえ、そろそろ疲れてまいりまして、体を動かそうかな、と、やってまいりました」
平助は愛想よく言った。
「いいの、怠けていて? それをあたしのせいにされたらいやよ」
「なあに、あたくしが勝手にやることですから」
その言葉どおり、平助は盥から洗ったものを取りあげると勝手にしぼり始めた。
「ところでさっき、こんなものを拾ったんですが」
平助は紙切れを懐からだした。なにか書きつけてある。お糸はそれを受け取ると目を走らせた。
「なんて書いてあるんです?」
「知らない。あたしだって字が読めないんだから」
お糸は怒ったように紙切れをつき返した。
「そういえば、二郎次さんを見ないんですが、どこかおでかけになりましたかね」
「さあ、あたしは知らないわ。なんでそんなこと気にするの?」
「いえ、さっき、お糸さんが二郎次様となにやらお話しなさってたのを見かけたもんで、何か知ってなさるかな、と」
「え……」
お糸はほんの一瞬、なにかを考える顔つきになったが、すぐに笑い顔になって、「なに言ってるの、あたし、今日は二郎次様とは一度もお話ししてないわよ。誰かと見間違えたんじゃないの、きっと」
「ああ、薄暗い廊下でしたから、きっとそうですね。ひょっとしたら三良様だったかも」
「あら、三良様にも会ってないわ。それ、あたしじゃなくて他の女中と間違えたんじゃないの」
「そうですかねえ。お糸さんと背格好の似た女中なんていないですよねえ」
「暗かったんでしょう、背格好なんてそんなにはっきりとわからないんじゃないの」
「そうか、見間違いですか」
「そう、見間違いよ」
そこに耕太がやってきた。十六歳の、丁稚小僧だ。
「平助、こんなとこで怠けてたのか。ずいぶん探させるんじゃないよ」
かなり年長の平助に偉そうに話しかけるのは、年期の長さと、読み書き算盤が自分はできるという先輩意識からだった。
「これはおそれいります」
平助は怒るようなそぶりもなく、康太に頭をさげた。
「番頭さんが御用がおありだ。すぐに行っとくれ」
「ああ、はい。じゃあお糸さん、すまないが……あ」
平助は行きかけて、なにかに気がついたように懐から紙切れを取りだした。
「康太さん、こんなものを拾ったんですがね」
「ん……どこでだい」
「はい、裏木戸を出たところ、路地の暗いところでございます」
康太は紙切れを取りあげた。
「サカナ、メザシ、カイ、アサリ、タバコ、ニジトキ……なんだい、こりゃあ、寺子屋の手習いか、買い物用に書きつけたものだろう」と康太は紙をつきかえした。
「これはありがとうございました。では」
平助は書き付けを受け取ると、軽く辞儀をして去っていった。
康太は馬鹿にしたような目でそれを見送ると、お糸に顔を向けた。
「なんだよ、あいつ、いい年して字も読めないんだもんなあ」
平助と入れ替わるように、土間に降りてきた。
「あら、あたしだって読めないわよ。悪い?」
「お糸ちゃんは女だからなあ、もちろん悪かないよ。お嫁さんにいきゃあそれでいいのさ。でも男はなあ。いまどき、読み書きができなくていいのは百姓くらいなもんじゃないか」
「ナマ言ってるわね」
「どうだい、なんなら俺が、お糸ちゃんをお嫁にしてやろうか」
「なに言ってんのよ、あんたまだ丁稚じゃないの」
「ちぇ、俺だってあと二、三年もすりゃ手代だ、そうなりゃ立派に嫁だって取れるぜ」
「そのころだって、あんたまだ十八くらいだろ。千吉さんだって音吉さんだって、三十前後なのに独り者だよ。いやいやそもそも番頭さんだって四十近いのに独身なんだ、なんで十八くらいで嫁を貰えるもんかね」
「俺はあいつら……あのひとたちとは違う。どうだい」
「どうだい、って、そのころじゃあ、わたしは二十の年増になっちまうよ」
「いま予約すれば、そんな年増だってもらってやるって言ってるのサ、ありがたく思え、今だけだぞ」
「ナマ言ってんじゃないわよ」
「なんだと、女のくせに生意気はどっちだ。男に逆らうと、こうだぞ」
康太は顔を真っ赤にして腕を振りあげた。とつぜん爆発した康太に、殴られる、と思わず目をつぶったそのとき、
「へへ、康太さん。今度はおまえさんを、番頭さんがお呼びですよ」
横から平助の声がして、薄目を開けるとにやにやと笑う平助の顔と、拳をごまかしごまかし降ろす康太がいっぺんに見えた。
「べつに俺は怠けてたわけじゃない、お糸が怠けてたから注意してたんだ」
「なにも言ってませんよ。さあさ、番頭さんがお待ちだ、早いとこ行ったり行ったり」
「くそっ、見習いのくせに生意気だぞ」
康太は羞恥と、怒りの持って行き場を平助に変更したようだ。大きく腕を振りかぶって、へっぴり腰で平助に殴りかかった。
「こいつは恐れ入りました」
しかし平助はをさげて軽く康太の拳をかわすと、その腕の下にもぐりこんで、康太と肩を組むような格好になった。
「あんまりおそくなるとあたしが怒られちまう。なんならこのままご案内しましょう」
肩を組んだまま、抱えるように引きずるように連れていこうとする。
「馬鹿、くそ、こいつ、放せ、馬鹿ぢからめ……痛い痛い、頼むから放してくれ……」
平助は康太を開放すると、
「ちゃんと番頭さんのとこへ行ってくださいよ」
と康太の体を軽々と持ちあげ廊下にあげた。
平助はお糸を振り返り、にやりと笑った。
「番頭さんに頼まれまして、これからちょっと出かけてきます」
「あら、どこへ?」
「はい、そろそろ夕刻というのに旦那様が戻られないので、迎いに」




