-95- 雑念
人は右、車は左・・これは当然、日本では守らねばならないルールである。入歯はそんな雑念を浮かべながら、その日もギコギコと自転車を漕いでいた。すると、正面から二人の学生服を着た若者が迫ってくるではないか。一人は早足で歩き、もう一人は自転車をゆっくりと漕いで話しながら入歯に迫ってきた。入歯は一瞬、? と躊躇った。というのも、冷静に考えれば一人は○で、もう一人は●なのだ。○は早足で歩いてくる学生で、●は自転車を漕いで迫る若者なのは歴然としていた。が、しかし、である。この場合、ルールを守っているような守っていないような半端な状態なのだ。入歯は脇へ逸れ、自転車を停車させた。本人達も恐らく、悪気はないように思われ、そのまま通り過ぎていった。ただ、こういう場合でも、短気な人なら怒鳴り、トラブルとなる危険性がある。そのトラブルが傷害事件・・いや、殺人事件にエスカレートすることも、なくはない…と入歯は雑念を膨らませたが、まあ、そんなことはないか…と思い直し、ははは…と笑い捨てた。そしてまた自転車を漕ぎ始めると、今度は年老いたお婆さんが乳母車を押しながら正面から迫ってきた。動きは緩慢だが、中央を歩く堂々の進み方で、わが王道を行く! 感がしなくもない。入歯はまたまた雑念を浮かべ、躊躇った。乳母車も一応、車なのだから左通行をしなければならない・・と考えれば●となる。だが、お婆さんは右側を歩いている訳だから、○なのである。入歯が、さて、どうしたものか…と思う間もなく、お婆さんはニコニコした笑顔で目の前まで来た。入歯はまた自転車を停車させ、道を譲った。お婆さんは、悪びれた様子もなく通り過ぎていった。入歯はまた漕ぎながら雑念を浮かべた。そうか! お婆さんは乳母車に乗っている訳ではないのだから、いいんだ! と。乳母車の中は買い物袋が入っていたことを入歯は思い出した。しばらく漕いでいると、入歯は、また? と雑念を浮かべた。あの乳母車に赤ん坊が乗っていれば、どうなるんだ…と。赤ん坊は車に乗っているのだから●か? いやいやいや…そんなことはない。赤ん坊は乳母車を運転している訳ではない…。そんな雑念を浮かべている間に、入歯は自分がどこへ向かっていたのかを忘れてしまっていた。
雑念が行動を鈍らせることは、よくある。
完




